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Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(3)後半

戦闘は申の刻(午後4時ごろ)から始まり、薄暮から日没にかけておよそ2時間ほどであった。
徳川軍を待ち構えて迎え撃った武田軍のために、家康は一蹴されてしまい、多くの犠牲を払いながら浜松城へ逃げ帰った。

武田信玄の得意としている戦法は、敵をおびき寄せて然るべき場所で迎え撃つ、というもの。この戦法にまんまと徳川家康ははまってしまった。

家康の身代わりとなった夏目吉信をはじめ、本多忠実、鳥居忠広、成瀬藤蔵らが討死。
二俣城の在番衆であった中根正照、青木貞治らも討たれた。
織田勢は平手汎秀が討死。
武田軍は主だった者の討死はなかったようで、まさに家康の生涯で二度とない大敗だった。
家康は、自らへの戒めのため、絵師を呼んで情けない姿を描かせた。

それが、この投稿のトップ画像の銅像の姿である。

兵力が劣る場合は籠城戦に頼ることが多いが、なぜ家康は圧倒的な兵力差があるにも関わらず、浜松城から出撃したか。
①信長と同盟関係にあったから。
 信長から加勢衆を送られながら、一戦も交えずに武田軍をやり過ごすということは出来なかったという説。

②家康に服属していた遠江・三河の国衆が次々に武田方に降っていくという状況があったから。
 敵わぬまでも一戦に及び、存在感を示さなければ、益々国衆離反が加速するから。

③一定の勝算の元動いたから。
 地理的な優位性を活かし、武田軍を追撃し、一撃を与えて浜松城に退く作戦。ところが負けてしまった、という説。

この3つの説、いずれも正しいと思う。
織田信長の援軍をいただきながら、何もせず三河方面に通過させた、となると単なる臆病者と揶揄され、批判され、国衆離反が加速する。

また、三河方面を過ぎると、いよいよ織田信長の領土の背中側であり、心臓部分でもある尾張進出にもつながってしまう。

そうなると、「あの時徳川家康が一歩も動かなかったせいで尾張まで進出されてしまった」となり、後世にまで影響を与えしまいかねない事態だ。

一戦交えた、というが実際に争った時間は夕方から夜半にかけての2時間で割と早く引き返している。

思ったよりもダメージが大きかったのと、家臣が機転を利かせて家康公を浜松に送り返した、というのと2つの理由がある。

果たして家康公は本当にもっと戦いたかったのだろうか。

可能ならば有能な家臣は残しつつ、最前線には遠江の国衆を立たせるなど前勢力を架ける必要はなかったのではないか。

夏目吉信は鳥居忠広、織田方の平手汎秀らは優秀な家臣。
それを失ったのはかなり大きい。

甲斐の虎・武田信玄はやはり一枚も二枚も上手だった。

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