Ⅱ 遠江侵攻と武田氏 #3 信玄と三方ヶ原の合戦(3)後半
武田信玄の得意としている戦法は、敵をおびき寄せて然るべき場所で迎え撃つ、というもの。この戦法にまんまと徳川家康ははまってしまった。
それが、この投稿のトップ画像の銅像の姿である。
この3つの説、いずれも正しいと思う。
織田信長の援軍をいただきながら、何もせず三河方面に通過させた、となると単なる臆病者と揶揄され、批判され、国衆離反が加速する。
また、三河方面を過ぎると、いよいよ織田信長の領土の背中側であり、心臓部分でもある尾張進出にもつながってしまう。
そうなると、「あの時徳川家康が一歩も動かなかったせいで尾張まで進出されてしまった」となり、後世にまで影響を与えしまいかねない事態だ。
一戦交えた、というが実際に争った時間は夕方から夜半にかけての2時間で割と早く引き返している。
思ったよりもダメージが大きかったのと、家臣が機転を利かせて家康公を浜松に送り返した、というのと2つの理由がある。
果たして家康公は本当にもっと戦いたかったのだろうか。
可能ならば有能な家臣は残しつつ、最前線には遠江の国衆を立たせるなど前勢力を架ける必要はなかったのではないか。
夏目吉信は鳥居忠広、織田方の平手汎秀らは優秀な家臣。
それを失ったのはかなり大きい。
甲斐の虎・武田信玄はやはり一枚も二枚も上手だった。
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