見出し画像

誕生日は娘の通夜でした。あらため、生まれてきてくれてありがとう、涼葉。

この文章は、娘を亡くした自分が気持ちの整理のために書いています。


2022年5月23日、娘が生まれました。名前を、涼葉、と言います。2022年6月4日、涼葉は亡くなりました。なんでこうなってしまったのか、よくわかりません。

涼葉が生まれた日。5月23日月曜日。その日は仕事をしつつ、MTG中に「娘が生まれそうになったら途中で切り上げるね」なんて言ってました。計画出産(無痛分娩)だったので、おそらくこの日に生まれる、ということがわかっていました。14時ごろ、僕は妻が入院している病院へ行きました。病院について、妻の出産に立ち会いました。15時51分。2460gで、少し小さめですが元気に産まれました。娘の涼葉は泣き声も大きかったし、妻も元気でした。娘と妻を病院に残し、私は家に帰りました。妻と娘の入院中、訪問することはご時世柄することができず、5月27日金曜日、退院のときにやっと会えました。第1子の息子と一緒に病院に行き、病室で哺乳瓶から妻の乳を飲ませました。身体が少し小さく、まだ自分の力でおっぱいを吸えないからです。もうすぐ3歳になる息子も一緒に哺乳瓶に手を添えて、お兄ちゃんらしくお手伝いをしてくれました。そこから私の名古屋の実家に戻り、私の母と祖母に涼葉を見せました。抱っこもしてもらいました。幸せってこういうことなんだろうなあと思いました。そこからは妻の実家、岐阜に里帰りです。私が車を運転して、家族4人で向かいました。妻の実家では、妻の両親と祖母、そして妻の兄と兄嫁に涼葉をかわるがわる抱っこしてもらいました。母乳も2時間おきに飲ませる必要があったので、哺乳瓶に入れた母乳を妻と、妻の両親と、私でかわるがわるあげました。飲みは少し悪かったですが、だいたい全部飲んでくれました。早く大きくなれよ~ってみんなで笑ってました。涼葉のお風呂はビニールのお風呂です。私が膨らませて、沐浴させました。息子を沐浴したときを思い出しながら、丁寧に洗います。おとなしく、気持ちよさそうに目を細めていました。かわいいなあ、と思いました。5月29日、日曜日に私と息子は私の実家に帰りました。妻と娘は妻の実家、私と息子は私の実家です。5月30日、月曜日からは片道50分かけて私が息子を保育園に送り、私の家で仕事をします。17時ごろになったら仕事を中抜けして保育園に迎えに行き、また50分かけて実家に戻り、そこから仕事に戻ります。家族との食事は一緒にとることができず、それについて祖母はちょっとぷりぷりしていました。そういう仕事だからね、と言い訳がましく謝りました。6月2日木曜日、息子を実家に預けて東京に行きました。この日は社会人1年目のときシェアハウスをしていた友人と久しぶりのごはんでした。学校教育と仕事と世の中とマーケティングについて話しました。そのまま新橋に泊まって、6月3日金曜日、翌日も東京で仕事でした。6月から週1出社が義務づけられ、久しぶりにチームメンバーとリアルなMTGをしました。名古屋⇔東京ですが、やっぱり生身の会話の方が私は好きだなあと思いました。その後、会社のメンバーとの飲み会でした。里帰りしている妻と娘に会うために、翌朝に岐阜に行くことは決まっていました。なので、終電では帰ろうかな、と思っていました。でも、すごく楽しくて、気づいたら終電は過ぎていて。そのまま2次会に行きました。妻から連絡が来てました。21時45分。「すずちゃんの呼吸がおかしいので、緊急外来に来ています」私が気づいたのは23時でした。電話をしました。謝罪しながら、「明日朝一で帰ります」と伝えました。娘の苦しそうな呼吸をしている動画が送られてきました。昨日までなんともなかったけれど、今日のお昼ごろから咳をするようになり、母乳を吐いてしまったと。そして、夜あたりに呼吸がおかしくなってきたので妻が#8000に電話をしたら「念のため緊急外来にきてください」ということで病院に連れて行ってくれた、とのことでした。妻と妻の母で涼葉を病院に連れていき、医師が検査したあと、涼葉はICUに入ることになりました。妻と妻の母は、いったん実家に帰宅することになったそうです。深夜4時のことでした。私はホテルに戻り、酔った頭で「涼葉、大丈夫かな。でも病院に入ったから安心かな。妻はよく気づいて病院行ってくれたな。ありがたいな。それなのに自分は飲み会か、、、これは明日、妻にえらい叱られるな、、、妻と涼葉に謝らないとな、、、」なんて考えながら寝ました。翌朝、6月4日土曜日。駅に向かう途中、妻から電話がありました。病院から呼び出されて、いままた病院に来ている。涼葉の状態が良くない。早く来てほしい、ということでした。始発の新幹線に乗りました。一度名古屋の実家に戻ってから息子を連れて岐阜に向かう予定でしたが、岐阜羽島駅で降りて直接病院向かうことにしました。けっこう飲んだはずでしたが、酔いはありませんでした。「ICU入ったんだよな、じゃあ大丈夫だよな。大丈夫。大丈夫大丈夫。妻にちゃんと謝ろう。ああ、やだな」モヤモヤが少しずつ濃くなっていく中、新幹線でスマホを握りしめてました。6時13分。妻からのビデオ通話でした。出ると、スマホの中に涼葉がいました。何本ものチューブにつながれ、医師が涼葉の心臓マッサージをしていました。小さな胸がべこべこ押され、身体がつぶれそうでした。顔は苦しそうでした。妻が「もう20分心臓マッサージしてるけど、戻らないの。もう楽にしてあげていいかってお医者さんが言うの。どうしたらいい?ねえ、どうしたらいい?」とかすれた声で言いました。ぜんぜん現実感が無かったです。いま自分はどこにいて、なにをしてて、妻はなにを喋っているのか。スマホの向こうでべこべこ胸を押されている涼葉。新幹線の振動。なんで?出産した病院ではとくに異常はなかった、と聞いていたし。昨日まで本当に元気だったのに。ビデオ通話しながら、なにか言わなきゃ、と思って、でも何も言えなくて。新幹線の通路口にうずくまって、「お医者さんの言うとおりにしよう、もう無理なんだよね?楽にしてあげよう」と絞り出すので精一杯でした。私は泣いていました。画面の向こうで、娘は亡くなりました。泣きながら通路に立つ自分を、駅員が怪訝な顔で見てきました。自分の両親に連絡して、息子を名古屋駅まで連れてきてもらいました。そこから岐阜羽島駅へ向かい、妻の父親が運転する車で病院に向かいました。病院からは、遺体を移動させる必要があるので、どこで葬儀を執り行うかを早急に決めて欲しい、と言われていました。自分の両親と、妻の両親と連絡を取り合いながら、どこで葬儀を行うかとか、どこのお寺に頼むか、みたいな話をしながら病院に向かいました。病院について、妻の母に息子を預け、妻と娘がいる部屋に入りました。妻が娘を抱いて、茫然とベッドの上に座っていました。「なんかね、私ね、涙が出ないの。夢だったらいいのにね。なんでかなあ」と妻は言いました。涼葉を抱きました。ほほに触ると、ひやりとしてました。声をあげて泣きました。なんでこんなことが起きているのか、まったくわからなかった。看護師が来て、やけに明るい声で最後に沐浴させましょう、と言いお湯を用意してくれました。あったかいお湯に涼葉を入れながら、丁寧に洗いました。まだ1回しか沐浴していないのにな。涼葉は、お風呂を気持ちよさそうにしていたなあ。あったかいお湯につけてたら、あったかくなって、生き返ったりしないかな。そんなことをぐるぐる考えながら、妻と一緒に泣きながら沐浴をしました。一緒にお風呂に入りたかったね、とか、こんなのってないよね、とか話しました。その後、医師が説明をしに来ました。結論として、亡くなった理由はわからないということ。おそらく、先天性の代謝性異常の可能性が高いこと。昨夜のタイミングで病院に来たときに、血液の中のビリルビン値という数値が異常に悪く、ここまで急激に悪くなるということは先天性の代謝性異常が疑われること。代謝性異常の影響で、身体の中の毒素を分解することができず、薬剤が効かないこと。また出血した際に血を凝固させることもできないこと。直接の死因は肺出血。呼吸がしづらくなり激しく呼吸し、それによって肺から出血し、最終的に呼吸ができなくなり、心臓が止まってしまったということ。いちど心臓が止まってから、強心剤を2本打って回復したが、また数十分後に心臓が止まったので強心剤を9本打ち、それでもダメだったから心臓マッサージをしたこと。医師は申し訳なさそうに話していました。私と妻は泣きながら聞くことしかできませんでした。そうか、呼吸がしづらくなったから、あんなにぜえぜえという呼吸をしていたのか、と妻から送られてきた動画が脳裏に浮かびました。昨夜、涼葉が苦しんでいたとき。妻はそれを見て不安になっていたとき。自分は、のんきに酒を飲んでいたんだな、と思いました。涼葉と妻がいちばん苦しい瞬間に、自分はなぜそこにいなかったんだろう。なぜ、スマホの画面の中で涼葉の最後を見届けなければいけなかったのだろう。そんなことも考えました。そのあと、妻の母に預けていた息子と合流して別の部屋に入りました。看護師さんが「写真、撮りましょうか」といってくれました。私、妻、息子、そして涼葉。家族4人の写真を撮りました。4人で撮った写真なんて、まだ片手で数えるほどしか無いのに。息子は「しゅずは、しゅずは」と涼葉の名を呼びました。「涼葉ちゃんは、天国に行ったんだよ」と妻が言いました。そこから車で妻の実家に帰りました。車の中で、涼葉は妻が抱いていました。妻の実家で、涼葉が使っていたベッドに涼葉を寝かせました。本当にただ寝ているみたいでした。妻の母、父、兄、祖母がかわるがわる涼葉を抱いてくれました。そうだ会社にも連絡しないと、と思い、上長、社長、人事、チームのリーダーにそれぞれ電話をしました。娘が亡くなりまして、と伝えることはすごくつらいし、一方でそれを土曜の朝から聞かされる人だってつらいよな、みたいなことを思いました。みんなつらい。通夜・葬儀は名古屋ですることにしたので、あわただしく荷物をまとめて、高速道路で名古屋へ向かいました。妻の父に運転してもらい、今度は涼葉は私が抱いていました。なんだか、生きていたときよりも少し重く感じました。なにかの拍子に目を開けて生き返ったりしないかな、なんてことをぼんやりと思いながら、涼葉の顔と外の景色を交互に見ていました。自分の実家についたら、和室の一室に涼葉を寝かせました。このころから、涼葉の鼻から少し血が出るようになっていたので、こまめにウェットティッシュで拭っていました。ぽこぽこ、と鼻から血が泡立ちながら出てくるので、もしかしたら息をしているのかもな、と錯覚しました。その後、葬儀屋とお坊さんが来て、明日の通夜の打ち合わせをしました。通夜も葬儀も、ほぼ家族のみでやることにしました。頭がぼんやりしている中で、葬儀のプランを選ぶというのはなかなか難しいな、と思いました。こんな形で、こんなタイミングで喪主をやるとは思ってもいませんでした。夕ご飯どき、祖母と叔父が来てくれました。叔父は、静かに泣いたのちに、息子の遊び相手になってくれました。叔父と息子が遊んでいる様子を、スマホで撮影しました。もっと写真や動画をたくさん撮った方がいい、と直感的に思ったからです。何気ない日常が、いつどうなるかなんて誰にもわからないので。夜、遺体が傷まないようエアコンをガンガンに効かせた部屋で、私、妻、息子、涼葉の4人で寝ました。息子がいつも以上に元気で、なかなか寝てくれませんでした。まだ2歳ですが、両親の暗い空気を気遣ったのかもしれません。夜が明けました。6月5日。自分の32歳の誕生日でした。自分の誕生日に、娘の通夜がある。すごくたちの悪い冗談みたいでした。冗談だったらよかったのに、と思いました。そのうち、私の妹とその夫、そして私の弟と叔母も来てくれました。和室で枕教をあげ、また、涼葉をかわるがわる抱っこしてもらいました。涼葉を生きているうちに会わせてあげたかった。生きている涼葉を抱っこしてほしかった。妹と弟に向けて、そう口に出してしまうと、また感情が込み上げてきて泣けてきました。一晩明けて、涼葉の顔は少し黒みがかった紫になり、顔もむくんでいました。本当は、もっと小顔で、もっと可愛かったのに。もっと可愛い涼葉を、みんなに見せてあげたかった。そんなことを思いながら、お昼ごろに葬儀場に向かいました。控室でしばらく過ごすと、湯灌を行う湯灌師の方が来ました。最後に、涼葉の身体をきれいにしてくれます。ご両親もぜひ一緒に、ということなので一緒にやりました。ドライアイスで冷え切った身体に触れると、やはりまた涙が出ました。湯灌が終わり、準備をしていく中で、「今回、赤ちゃんですが少しだけ化粧をしましょうか」という話がありました。湯灌師の方が薄く化粧をした後に、「じゃあ、最後にチークはお母さんが」と湯灌師の方が言い、妻が泣きながらチークを塗りました。妻が子に化粧をしてあげる、というのはもっと幸せな光景ではないのか、と思いました。あまりにひどい。通夜はとどこおりなく終わりました。喪主の挨拶の最中はやっぱり泣いてしまいました。通夜が終わったあと、息子は私の両親に預け、私と妻は2人で晩御飯を食べに行きました。「今日誕生日だもんね」妻がそう言ってくれました。誕生日。人生で一番めでたくない誕生日でした。夜は、葬儀場に泊まることにしました。私と、妻と、涼葉。3人で、最後の時間をゆっくり過ごしたいと思ったからです。棺に入った涼葉は、化粧でいくぶん顔色が良くなっていました。本当に可愛い。棺に覆いかぶさるようにして、2人で泣きました。「この先、どうやって生きていけばいいかわからない」と妻が言いました。私はなにも言えませんでした。布団に入って、2人で話しました。涼葉のこと。家族のこと。これからのこと。そして眠りにつきました。6月6日、日曜日。葬儀の日です。葬儀の司会者と打ち合わせをする中で、司会者の方がとつぜん泣き出したのが印象的でした。女性の方だったので、もしかしたら自分の子どもと重ねたのかもしれません。そっちはプロなのに?という思いと、プロの方でも子どもの死というのはショックなのかな、という思いと、いろんな感情がないまぜになりました。葬儀が始まり、妻が、涼葉に向けてお別れの挨拶を読みました。そのあと喪主の挨拶をして、最後にみんなで棺に花を入れます。もうこれで、涼葉の顔を見るのは最後なんだ。そう思うと、花を入れる手が鈍りました。花を入れ終わると、火葬場へ車で向かいます。火葬場に近づくと、もくもくと煙が上がっているのが見えました。涼葉もああやって空に行くんだな、とぼんやり思いました。火葬場で暗いトンネルみたいなところに涼葉の棺は入っていきました。扉が閉められました。ああもう会えないんだ、と思いました。3時間後ぐらいにまた扉の前に集まりました。扉が開きます。目の前に骨がありました。これが頭蓋骨。これが下顎。肩甲骨。大腿骨。葬儀場の人が説明してくれました。ちゃんと骨が残っていて良かったです。小さいから、もしかしたら骨が残らないんじゃないかと不安だったので。涼葉の骨をひとつずつ、骨壺に入れました。その後はもういちど葬儀場に戻って、少し打ち合わせをして、最後に自宅へ簡易的なお参りをする祭壇をつくってもらいました。涼葉が亡くなって、まだ2日しか経っていないのに、数か月経ったような気分でした。

みんなから祝福されてこの世に生まれてきた涼葉は、たった13日でいなくなってしまった。そうじゃなくて。13日もみんなを幸せにしてくれたんだ。そう考えよう。とか。涼葉がこの世界に生まれてきてくれたことにはなにか意味があるんだよ。とか。娘がもういない、という事実に対して、どうしても、いろんなことを考えてしまう。たとえば、今回、奇跡的に助かったとしても長いこと呼吸が止まり脳に酸素がいきわたらなかったので、確実に重度の障害が残る、という話が医師からあったから。それと比べれば、とか。あるいは、今回のようなことがおきなくても、涼葉はおそらく先天性の代謝異常ということなので、もう少し大きくなってから発症してたかも、という話もありました。娘が13日で亡くなるのと、1歳3か月で亡くなるのと、13歳で亡くなるの。もちろん全部辛いけど、選ぶとしたら?そういう思考をしてしまう。今回はマシだったのかも。もっとしんどい現実があったかも。あるいは。仕事に戻ったときに、自分はどういう顔をすればよいのか。急に泣き出したりしないだろうか。上手く笑えるだろうか。あるいは、笑ったら笑ったで「あの人娘が亡くなったのにもう笑ってる」なんて思われやしないだろうか。「2児のパパおめでとうございます!」つい最近も、そう言ってくれる人もいる。そういう人に対して「ありがとうございます、でも、もういないんです」と伝えることの苦しさ。そういうものを想像するだけでつらい。誰も悪くない。誰も悪くないのに、つらいし、苦しい。もちろん頭ではわかっている。人はいつか死ぬ。赤ちゃんだって、世界では毎日死んでる。それが今回、たまたま自分のところに来ただけであって。レアケース、というだけで。もう少し大きくなってから亡くなってしまうことだって、あるいは親の過失によって亡くなることもある。それと比べたら、今回の方がまだよかった、とか。とにかく、前に進まないといけないのだ。息子がいる。妻もいる。残された側の人生を考える必要がある。涼葉が生まれてきた意味を考えよう。生まれてきてよかったことを考えよう。幸せな13日間について思いを馳せよう。何事にも意味はある。前向きに考えるんだ。涼葉が生まれて、旅立って、命について考えることができた。仕事を休んで家族について考えることができた。家族の大切さを再認識できた。だから良かった。

だから良かった?

ここまで書き綴って、ようやく自分の思考に違和感を覚える。娘の死をポジティブに受け止めようとする。それは、正しいようで、なにか違う気がした。なんでこうなってしまったのか。たぶん、それは仕事的な考え方なんだと思う。自分の人生の中で、仕事というものが占める割合は本当に大きい。仕事で大事なのは、物事を前に進めること。曖昧なものを言語化すること。ピンチをチャンスだと捉えること。課題を解決すること。自分ごと化して考えること。アイデアを出すこと。つらいことほど乗り越えると成長するということ。いつの間にか、そういう「仕事的な考え方」で今回の出来事も捉えていた。事実を受け止めて、解釈する。自分の気持ちを吐き出して、整理する。良い方向へ解釈する。自分にとってポジティブにならないか見方を変える。このつらさが成長につながらないか思案する。悩んでいても前に進まないから。現実は変わらないから。だったらさっさと切り替えた方が良い。そっちの方が無駄じゃない。など。

でも、やっぱりそれは違う気がした。

涼葉。乳を飲ませているときに、じっとこちらの目を見つめていた。指が細くてすらっとしていた。お風呂で気持ちよさそうにしていた。足を力強くバタバタさせていた。きっとかわいい子に育ったと思う。どんな性格になったのかな。兄となる息子とはどんな会話をしたのかな。家族4人でディズニーランドとかに行ったら楽しいんだろうな。

けど、そういうことを考え続けるというのが、もう、あまりにつらいのだ。あまりにつらくて、そうじゃない考え方をしてしまう。いつもの、自分の中で馴染んだ思考様式で捉えてしまう。

代謝性異常というのは、血を固めることができないということ。呼吸に異常が出て、激しく呼吸し、肺から出血しても、それが止まらない。涼葉は最後、肺から血が出て、呼吸ができずに亡くなった。想像すると、すごく苦しい。まだ0歳の子が生きようと懸命に呼吸しても、うまく吸えないのだ。きっとすごく痛いだろうに。そして、脳に酸素が行き届かなくなり、心臓が止まる。その少し前には、自分は東京でお酒を飲みながら笑って、涼葉が一番苦しいときにはホテルですやすやと寝ていたのだ。仕方なかった。自分は日常を過ごしていただけ。理屈の上ではそうだ。でも、もう、そういう画が脳裏に浮かんでしまう。呼吸に苦しそうな涼葉。それをみて焦る妻。お酒を飲んでいる自分。ICUで治療を受ける涼葉。ホテルで眠りこけている自分。そういう画が浮かぶ。終電で帰っていれば、涼葉の最後を妻と一緒に看取れたかもしれないのに。そんな「もし」を考えてしまう。そういうことを考えることも、やっぱりつらいし、嫌なのだ。嫌だから、別の考え方をする。

結局。自分は、自分のことばっかりなのだと思った。自分にとっての意味。自分が前に進むためにはどうすればいいか。自分がどう思われるか。自分はどうすればよかったか。涼葉のこと。妻のこと。息子のこと。自分以外のことを考えているつもりが、気づいたら自分になってる。

この文章のタイトルを、「誕生日は娘の通夜でした」にしていた。
なんとなくつけたタイトルだ。事実だし、本当につらかったし、こう書くことで「つらさ」が伝わる気がした。でもやっぱりそうじゃない。それは自分の話であって、涼葉の話じゃないので。

あらためなければいけない、と思った。でもそれは、涼葉の死をきっかけにあらためるわけではない。上手く言えないけど、決して、自分が気づきや学びを得るために涼葉は生まれてきて、亡くなったわけじゃないのだ。本当に、とてもあたりまえのことだけど。こんなあたりまえのことも、書いてみないとわからなくなってるんだと思った。

涼葉と、そして涼葉の死に向き合うということ。正解はないし、近道も無い。死、というものがあまりに大きく、難しすぎるんだと思う。いままで自分が人生で得て、学んできたものじゃ、なんともならないぐらい。

涼葉のことを考える。それは、涼葉のことについて100%考える、ということであって、決して「自分にとって涼葉がどういう意味だったのか」を考えることじゃない。いま、自宅に祭壇がある。遺影があって、骨壺があって、ろうそくがある。毎朝、水とご飯を替えて、線香に火をつけて、お参りをする。そのとき、涼葉のことを考える。涼葉のことだけを考える。そうするときに出てくる思いは、感謝だった。ありがとう。生まれてきてくれたことに。生きてくれたことに。家族になれたことに。涼葉のすべてに感謝しよう。そう思った。そして、これからもそういう風に、考えていこうと思う。涼葉のことも、家族のことも。相手のことだけを考えて、思う。自分以外のことを考えるということは、そういうことなんだと思う。

以上です。

涼葉が亡くなって2週間。家族に、親戚に、友人に、そして職場のみなさんに心配とご迷惑をたくさんかけました。今回のことは、ごく少数の方にしかお伝えしませんでしたが、温かい言葉をありがとうございました。励まされました。しばらく情緒不安定なところもあるかもしれませんが、できる限り早く日常に戻っていければと思います。

涼葉。
生まれてきてくれてありがとう。
幸せな時間をほんとうにありがとう。
大好きです。


画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?