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その十九、6月前半


2021年6月前半

 『アースダイバー神社編』における〈縄文/海民/伊勢〉の三層構造という見方の面白いところは、音楽(特にレコード)を聴いていても分かることで… 古いものの上に新しいものが層をなして積み重なっているということである。古い歴史を現代と切り離して… 別々のものとして… 過去を独立したものとして見るのも勿論いいし、そこには意義もある。だが、歴史も音楽も一直線上に進化発展してきたわけではない。時には突然変異のように、突発的に何にも似ていないようなものが出てくることもあるかもしれないけれど… 新しいものの低層には古いものが積み重なっていて、古い音楽を知っている方がそのことに気づくことができるであろうと思う。それに、そのように新しいものを見た方が面白い… 確実に… 子どもじゃないんだから…。

 例えば昭和歌謡は… 外国のポップスの日本語訳的な表層の奥に民謡の素養が見え隠れしていたり、演奏をラテンやジャズのミュージシャンが引き受けていたりしていたりすることで独特のミクスチャー感が醸し出されていたりするし、逆にリズム感の地層が全く欠けていたりする。ビートルズはその大部分がブラック・ミュージックを土台にしているし、Staxやマッスル・ショールズのブラック・ミュージックを演奏していたのが実は白人だったりして… リスナーは黒/白みたいな表層に簡単に騙されてしまう。卑近な例で言えば… ミスチル・オリエンテッドな今世紀以降のJ-popバンドがミスター・チルドレン以前の歴史の深みを全く感じさせることができないのも、J-popを直近の時代の流れとして受け取ることしかできなかったからだと思える。(ミスチルの日本語の用法… 韻やライミング的な手法に革新性があるとすれば、彼らは言葉重視で… 言い過ぎるとすれば、言葉メインのために音楽を利用し過ぎたのかもしれない…。)私は音楽歴史主義者と言われても否定しないが、全く守るべき正統性を持っていないからこそむしろ懐疑的異端主義であり、考古学的民俗学派でもあるかもしれない。その点、細野(晴臣)さんなんかは、日本ロック史としては特にYMOに至るまでの流れを一直線上に捉えようとすればその中心軸にいるような人だけど… 軸というよりはまさに地層的な音楽家であるように私には思える。

 細野さんに関係ないとも言えない中沢さんには、過去のオウムの件があるからどうしてもアンチの人がしぶとくいるようで… ファンタジーだとかフェイクだとかいう批判もいまだにあるようだ。私は〈正しさ〉ということに対する懐疑心が強い方だし、知の冒険、可能性の面白さというようなことが好きだから、そのあたりに対する〈幻想性〉と言われかねないような要素は踏まえていたいと思っている。一度だけ中沢さんの講演会に行ったことがあって、あれは『女は存在しない』という本が出た時だった。最前列に意気込んで座り、質問コーナーで手を挙げてみたりする若気が私にはあった。その後すぐ、隣に座っていた男性が即座に挙手をして「隣の人が脚を組んでお話を聞いていましたが、どう思われますか?」と質問した。「怖っ!」と思ったが時遅し。すると中沢さんはこう返した。「背骨が曲がってるんじゃないですか?」傑作だった。有り難く拝聴していたであろう隣席の方には失礼なことをしてしまったのかもしれないと思って謝っておいたはずだが… 笑いを隠しきれていなかったかもしれない。

 〈幻想性〉という点ではさらに強者であり、同じく縄文から大和朝廷あたりについての著作も多い梅原猛さんの本も読んでおきたいと思って、『隠された十字架』を手に取ったが… この本の聖徳太子と法隆寺に関する仮説もその後にかなり反証されているようなので、大著を完読するよりも手っ取り早く、座談として〈梅原日本学〉の論旨が語られている『怨霊と縄文』を一気読みした。梅原さんと中沢さんの異端的つながりが感じられる。私は近未来SFよりも過去に対するSFの方が好きで… つまり過去の歴史に関する、学術的検証を基にした想像もしくは幻想としてのサイエンス・フィクションである。その感覚で言えば… 現行の音楽は、同時代の社会についての表現である以上に未来を予言する近未来SF… 言い換えれば、ミュージシャンたちがこれまでに培ってきた音楽的技術素養を基にしたちょっと先へのアート的創造であってほしいと思っているところがある。けれども、なかなかそういうものには出会えることが少なくて… 過去の録音物に対しての想像検証が中心になってしまうのも関係しているのかもしれない。どちらにしても常に同時代を生きつつある自分を通して、ということになる。個人的現在という限界性とそこから生じる幻想性は常にセットで… 地層性とは… 見ようとする人にしか見えない… 幻想であると同時に歴史で… 正しさとしてではない、興味の対象ぐらいにしておこう…。

 さて、通っているスナックのママがコロナ陰謀論にハマってしまって心配でしょうがない心優しきマーさんが、そのママを連れてきてくれようとして電話をくれた。私は知らない人の噂話も苦手だし、会ってその陰謀論を聞いてみたい気もしていたんだけど… 「こんな時期ですし」と断った。マーさんは翌日その報告に来てくれた。コロナ・ワクチンは世界戦争の陰謀なのだから「射たないで!」と… スナックの常連高齢者たちに陰謀論サイトを見せながら説き伏せようとして、すっかり嫌われてしまっているとのこと。言ってみればワクチンはお国のために集団免疫を獲得するという徴兵制で… 赤紙が来てしまった高齢者たちに徴兵逃れをしてくれと説得を続けているわけである。国家総動員ワクチン翼賛体制の中で、戦争に行かないで、志願してまで死なないでと、母性愛とお手当ての波動と、弥勒菩薩像とかなにかの玉石の力を総動員して止めにかかっているとか…。「戦争の時代なら徴兵忌避を言うなんて覚悟がいるし大変だよ。ゲンちゃんだったらどうする?」って。

 僕は戦争の歴史を知ってしまった以上、徴兵逃れをしたいと思ってきました。今回のワクチン接種も後回しでいいと思ってるし、できたら国民の半数ぐらいが集団免疫を獲得してくれて、それで射たずに済めばいいなと思ってます。でも本当に召集令状が来てしまったら、拷問を受けるかもしれないような覚悟を持って逃げ切れるだろうかと思うと、そこまでの自信もないかもしれない。ちょうど妻が医療関係者の枠でワクチンの一回目を受けたところでして… カミさんは長いこと悩んだ末に「集団免疫に貢献します」って言ってた。僕はカミさんを止めることもできないし、かと言って夫婦で同じ行動を取ればいいってものでもない。源平に分かれた大庭景親景義兄弟のように、どちらかが生き残るという方策を取ったほうがいい場合もあるかもしれない。娘は母親の影響が強いから「私も受けたい」とか言っちゃってますけど…。

 陰謀論もファンタジーで… 幻想の一貫性の歴史で…。でもかと言って笑えないのは、我々が生きているこの現実がSFみたいなもので… 何が正しいかなんて我々には分からないからだ。誰かには分かっているかもしれない正しさだって、どんな非道な正しさか知れたものではない。私は〈正しさ〉に対する懐疑主義だから… やはり疑い続けるしかない。正しさの分からない、というか正しさのないSFみたいな現実を… どうやって生き抜いていけばいいかっていったら、正しさは… 正しさだけは使いたくないとも言い切れない… 正しさも参考までに使うけど… 正しさを半分ぐらい信じている自分もいるわけだけれど… 正しさだけを拠り所にすることはできるわけがない。疑い続けて… それで正しさではない何が、手段として残るっていうのだろうか…。

 ある日の起きがけのまどろみの中で、〈対処する幸せ〉っていう言葉が降ってきた。その反対は〈享受する幸せ〉かもしれない。対処し続けるということはカッタルイんだけど、好きなことをやり続けられることが幸せだとすれば、私は疑い続けながら可能性を見つけ出そうとすることが好きなわけだから… 困難に対処し続けるっていうのは幸せなことなのかもしれないんだ。古い車を修理して乗り続けるとか、壊れた機材を直して使うとか、好敵手と対戦するのが楽しみのスポーツとか、天候に左右されながら作物を育てたり、子供を育てて家庭生活を続けていくことだって困難に対処する幸せで…。経済成長原理なら全部使い捨てて新しいものを買うか、困難や危険を避けることが〈正しさ〉となるはずだ。だとすれば、困難の対処を自分ではない他の誰かにやらせる… そのための対価を払う… ということが〈正しさ〉となるのかもしれない。

 マルガブさんの読み忘れていた昨夏の新書『全体主義の克服』は読みやすい対談で、これも一気に読了。「精神の毒にワクチンを」というキャッチーな前書きがあってマルガブさんらしい。ある土曜日、野球仲間である化学企業の技術者ナーちゃんとプロ野球を観てたら、ブルーズ・マニアかつ数学者のサーさんがレコードを持って現れた。レコードのイベントがコロナで中止になったのに間違えて、いや間違えたフリして家庭を抜け出して来たのである。酒場とは、常に言い訳の場であってよい。なぜなら言い訳とは本来自己責任だからである。上位の機構、例えば「上司に言われてさー」とか「クライアントが勝手なこと言いやがってさー」ということに対処しなければ生活できない、ということは言い訳として成立しやすい。その下で「先生に言われて」とか「ケーサツに命令されて」いうのは権力構造を自らの行動選択肢の優先に置くしかない、つまり社会の責任に屈すると同時に責任を転嫁している好例なわけである。それが酒場の約束に置き換わるということは、酒場に権力があるわけではないのにそれを使うのだから、権力構造と自己責任の逆転的諧謔である。友達との約束も然り。夫婦の拘束だって、婚姻届の社会的ルールが入ってくるからメンドくさいだけで、そのような権力構造のない約束が全ての優先順位に勝るということが、諧謔を超えた自己責任の根本原理となっているはずである。ルールが自分たちを縛る、ということを超えた行動原理から社会が紡ぎ上げられていくとしたら、その言い訳に酒場が使われるのはマコトにケッコーな話なのである。

 話はズレてしまった。日本では取得しづらい特殊資格を持っている外国大学出身理系女子であるナーちゃんと、大学を離れてからもアマチュアとして研究を続けているインディー数学者のサーさんは、高分子結合の数学的研究について話し合っている… 野球中継を観ながら…。例えば蜂の巣的な正六角形は、二つのものを結びつけるのにスケープゴートが必要で、2+1で〈3〉となる。2と3の組み合わせの原理は、音楽のリズム構造を鑑みるにも全く面白い話なのだが、その話は長くなるのでここでは割愛して… 二元論と三元論の組み合わせのヒントとして私は興味深く聞いていた。〈父と子と精霊〉のキリスト教的三元論は、まとめて一神教的一元論に回収されるわけで… でもそうではないはずだとアンチ一神教的日本人の私としては思う。2と3の組み合わせをもっと考えていかなきゃならない… っていうか考えると楽しい。最近どこかで読んだ、魂が素粒子よりも小さい〈物質〉だとかいう仮説のノーベル賞科学者の案件にしても、実験するにもお金がかかりすぎて… しかも証明できたとしても現実の即時的な役に立つわけでもない。現実的に使われるには〈正しさ〉を証明するまでもなく… 実用化される。原爆もワクチンも然り。

 我々の時代が基礎に置いている科学は西洋科学で、その科学主義の基盤にはキリスト神学という普遍主義がある。しかし普遍的と言っているものはヨーロッパ中心の普遍であって普遍ではない。少なくともアジアはそこから除外されている。最近も誰か政治家が言っていたが… 安全と言っているものはホントは安全でないように… コントロールされてるというのはコントロールなんか全然されていないように… 普遍と言ってしまうからには〈普遍〉ではないのだ。むしろ安全でないものを安全と言い、普遍でないものを普遍と言って、そこから普遍とされたもの… いや〈普遍としようとしたもの〉を積み上げていったのがヨーロッパ的科学なわけだ。数学者は今でも無限や超限にチャレンジしている。しかし彼らのツールは西洋的数学で、西洋科学的な内側から無限超限に到達しようとするわけだが、岡潔のようなアジア的発想が数学の限界を突き崩して現在もいまだに有効なように、どうやら普遍性の内側からの限界突破は不可能なのではないか!なんの個人的利益にも名誉にもならなそうな小さな数学の研究(いくつかの難問が残されている)が、アマチュア的であるからこそ今でも人類的善意の対象になっているのは、普遍的正しさを守っている学問的な官僚性… 科学官僚主義… 言ってみれば西洋科学宗教… に対する懐疑… 危険性と言ってもよい… があるからこそ、その外側に立っている… つまりその独立性と査読による集団的知性のようなもの… によるのであろうと思う。それは宗教における異端… 官僚性に対する純粋さのようなものが、こんな時代にもまだ残されているからなのだ。

 さてマルガブさんは、例えばどんな文化の人でもお互いに子供を虐げるのは良くないって分かるよね、っていう共通理解から倫理を紡ぎ上げていこうと言う。西洋的普遍が哲学的にどこまで突き詰めていっても到達することのできない底のようなところから、つまりデジタル的に考えたら極小のところまで行くしかない二元論の… 最終的な隙間のような領域として、いやそれは領域というよりはベクトルのある力として〈倫理〉を掲げる。それは、我々縄文の残党的日本人には〈倫理〉という硬い言葉としては当てはまらないような感覚として認知できるはずだと私には思える。卑俗な言い方をすれば、先ほどの〈言い訳としての酒場〉みたいなものだ。なんの実存的な利益にもならない、損得でもない… つまり差異権力が生じないところに基盤がある… というよりもそこを基盤としなきゃならない。そこが〈底〉なのだ… 我々にとっては…。

 逆に言えば、ホントの普遍ではないものを普遍とするところから積み上げられた西洋的な科学がどのようにして成立してきたかと言えば… それは、正しいと誰かが言い張ったことを正しいとして守ってきた、正しさに対する疑問を抑えて、正しさに従ってきた官僚的な思考、官僚主義だ。日本では〈官僚〉というと国家公務員のイメージになってしまうけれど、官僚的というのは必ずしも公務員のことを言うわけではなく… 現場で対処している誰かがいて… その対処もどんどん下請けにアウトソーシングされて… 無駄な仲介者がいて… あらゆるところに蔓延っていく。正しいと言われたことを正しさとして仕事をすれば生きていけるという考え… 仕方なく従うしかなかった歴史の積み重ねから… いつの間にか懐疑的に自分で考えるようなプロセスを省いて… 従ってしまう… 仕方ないとか言って… これが官僚的ということだ。奴隷的と言ったら歴史における奴隷制に対して甚だ失礼で、これは能動的奴隷ということになるだろう。ローランド・カークの歴史的名演”Volunteered Slavery”を聴いてみれば、分かる者には気付かされる… 分からない者には一生分からない…。

 それがいかに現代の賃金労働社会の(底というよりは)中間管理職に蔓延っているかは、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を読むまでもなく、どんな人にも心当たりがあるはずだ… 心に当たらない者は、一生気付かずに済むのかもしれない…。余談だがグレーバーがコロナ禍に亡くなったのは、私は殺されたと思っている。大事なことを言って普遍に対して懐疑を突きつける人を、普遍というヤツは事もなさげに殺してしまう。我々の上にはインチキ普遍が… この際「普遍などインチキだ」と言ってしまおう!… 頑強に立ちはだかっているのだ。

 「思考、つまり考えることの本質は権力関係に立つことではありません。グローバルな世界で哲学が果たす役割は、権力関係を中立化することです。それは、倫理は中立的なものに向かうと考えることです。」とマルガブさんは前掲書で語っている。「哲学だけが変容をもたらす唯一の場所」と言うのは哲学者としての哲学キャンペーンとしては頷けるが、「アートは解放的な力にはなれない」とも小さく書いてあって、音楽に対する無力感を抱いてしまっている私にはことさら響いてしまった。エレクトリック・ギターで世界が変えられると思っていた、と語っていたのは若き日のスプリングスティーンだが、デヴィッド・バーンは音楽で世界は変えられないが音楽は人を変えることができる、とどこかで言っていた気がする。引用文献なくてスミマセン…。アートにまだ力があるとすれば、世界的著名アーティストにお任せするのではなく、アートにおける官僚主義に対しての懐疑としてのアートを、殺されない程度のめだたない領域で、無名のアマチュアとしてやっていくしかないのだ。というか、そこしか残っていない。困難の対処としてのアート/学問を自分ではない他の誰かにやらせる… そのための対価を払う… 高級コンサート代だって学費受験教育費だって… ということの経済的〈正しさ〉さえ官僚奴隷的となってしまった今や…。

 サーさんとジャンゴ・ラインハルトの戦前録音のCDを聴きながら、「SP盤で聴いてみたいねえ」なんて話をしたり、このところずっとマイブームだったジョージ・アダムス=ドン・プーレン・カルテットの可愛いフリージャズについて話し合ってたら、ナーちゃんが「音楽の話が分からない!」と叫ぶ。フリージャズの〈可愛さ〉なんていうのは私が言い張っているだけでなんの普遍性もないのだけど、音楽の用語とか解釈っていうのには歴史があり、誰が言い始めたのか知らないけど官僚主義的な踏襲は確かにある。それは〈美学〉ということになるのだろう。長い年月音楽を聴いてきた人たちには、その人たちにだけ分かるような美学的… あるいは専門分野的な語法がある。聴感体感を土台とした表現の仕方に〈秘密の暗号〉のような共通語法があって… 「それ分かるー」という共感を科学的理論ではない会話の仕方で確かめていくのだ。だから同じものを聴いてみてなんとなく「いいねー」と思ってくれるだけでもいいのだけど… もう少し地層の深みともなると分からない人には分かってもらえないし、ちょっとした素養や基礎知識と、その人それぞれの感覚的語法が必要なのである。この店にいつも集ってくれる音楽好きの人たちによって、この店なりの音楽美学が少しずつ積み重なって成立してきたと言えるのだろうが、そこには語法の分からないという客人たちに想いを伝えようとしたりすることによって、新たな聴き方に気づくということは大いによくあることである。

 例えばある音楽の手法を、誰が始めたか、誰がオリジナルかと判定するような還元主義ではなく… このたかだか100年の録音音楽の歴史としても全てがその途中の段階であるわけで… 前例主義的な型にハマらず疑問を持ちながら感覚を使って聴いていくことは、どこまで行っても美学的な普遍に根差そうとすることではない。それは言ってみれば… 聴けば聴くほど感覚の〈無駄遣い〉である。どこまで行っても辿りつかないような感覚は、逆にどこかで言葉を与えて止めてしまえるような、中途半端な〈普遍〉では納得しない。どこまで行っても結論に達しないのだから、それは〈無駄〉なのである。

 ある日、音楽仲間のグーさんが来てくれて、ひと話ふた話落ち着いたところで「そーいえば発達障害の話はどーなった?」と尋ねた。なんで?と聞けばテレビでサークル芸人みたいな番組を見ながら奥さんと、あの発達障害的な店主はどーなんだろうという話になったらしい。中高とバレーボール部に入り、10年ぐらい前には山岳レースとかに取り組んでいた私は… 集団性もありストイックにも見えて… 中学の頃から部活に馴染めず友達とバンドを組んできた組織嫌いのグーさんからすると、同じ音楽仲間としては「ビビった」らしいのだ。
 
 私は身の上話から始めてみた。小学生の頃に親にお願いして少年野球に入れてもらった。スポ根と、仲間というものに憧れていたのだ。後から思えば、引っ越してきた新興住宅地にはお祭りも土地の文化もなく、性格的にも協調性や社会性に欠けていた私は、それを補っておこうと子供ながらに無意識にも感じていたのだと思う… という症状だったかもしれない。中学では一番厳しいと言われていた体罰教師と不良の先輩だらけの部活に進んで入った。軍隊にも入るような覚悟で、頭を丸め、シゴきに耐えられなければ大した男にはなれないような気がしてた… それもまた症状だ…。だけど試合や本番よりも練習が好きで… 攻撃よりも守備が好きで… 高校の頃にもなると仲間と長い時間ゲームの時間を過ごしていたいという気持ちが働いて、勝てる試合でもわざと失敗してしまうようなヒネクレ者の無意識が露出してきてしまい… 仲間には散々迷惑をかけた。私はそのような〈症状〉のある人間であったので、大学ではもはやサークルにも馴染めず、就職もせず一人でできる商売に落ち着いた。20代のうちにそのような機会に恵まれたのはひとえに人の縁によるわけだが、それも〈症状〉による導きだったかもしれない。その後こうして20年お店をやれたのも、いろいろ気にしてきたフツーなことが少しずつ削ぎ落とされてきて… 試してみたけど続かなかったり、無駄だと思えたり、客人が入れ替わって音楽好きの人たちが増えていったり… そうやっているうちに〈症状としての商売〉のやり方に収斂されてきたからのではないかと思える。

 グーさんは大学の頃に結成したバンドを同じメンバーでもう30年も続けていて… 揺らぎやズレや変拍子を見事に昇華したその音楽は、つかず離れずの長年の人間関係ならではの… バラけつつまとまらないまま進んでいく… その全体性が全く素晴らしい!それもまた集団的な〈症状としての音楽〉と言えるかもしれない。私は〈症状としての音楽〉がおそらく無意識的に好きなのだ。もしくは症状として捉えることのできる音楽が。何せ〈症状としての商売〉を選んでいるぐらいだから…。

 そんな発達障害の話で盛り上がっていた時に、ナーちゃんは「アタシは若い頃ジグソーパズルをやってた。そうすると落ち着くんだ。お金持ちの友達の家に行って、大広間にいっぱいになるような何万ピースものパズルをずっとやらせてもらってた。」って言った。感覚/精神の向け方ってのがあって、向ける対象に対して〈無駄遣い〉をさせなければ暴走してしまう。それは… 我々音楽好きにとっては音楽であり、数学者のサーさんにとっては高次元の数学であり… 感覚/精神の無駄遣いの対象の持ち方なんだ。それが崇高な一点の目標の設定された一神教的なものや、還元主義的な一つの答えだと行き詰まる… と私には思える。完璧さや説明可能さを目指してしまうと悩むし鬱になってしまう。だからといって無駄は、精神の暴走を止めるために有意義だと捉えてはいけない。無駄を有意義にしてしまったら無駄ではなくなる。〈無駄〉は〈無駄遣い〉しなきゃいけないのだ。逆に言えば、完璧さや説明可能の有意義さという〈正しさ〉が鬱や障害に向かわせてしまう… のかもしれない。

 野球好きの私とナーちゃんにとっては、プロ野球も現実的な哲学で… 勝ち負けのスポーツ原理でありながら年間を通して6割勝って4割負けを取る倫理で…。でも野球を観たって何の特にもならない。これは私にとってのほぼ唯一の娯楽で… 無駄を無駄として傾けるだけの面白さがあると思うから無駄を無駄遣いするのだ。だから野球は深くなければならないし、そのためには野球選手とスタッフたちは一生懸命やっててもらわなければならない。そのモチベーションが活躍してお金を稼ぐことにあっても結構なことだ。ただし、音楽はそれと同様というわけにはいかない。スポーツではないし、ましてやプロ・スポーツではない。(スポーツ的な音楽がある、ということはあると思う。)音楽には勝ち負けがないからこそ商業的な〈勝ち〉を目指すことの倫理が問われる。むしろ何かを目指す音楽より、症状としての音楽を表現することに倫理があるのかもしれない。中立を目指す倫理よりも、症状として自らのイーヴンを目指す。中立を目指すことも、また正直であろうとすることも意識的な行為であるから難しい。バランスを取ろうとすることよりは、無駄の無駄遣いで精神の暴走を散らすようにしながら、各自のアンバランスなイーヴンを取ろうとする。これは〈症状としての倫理〉仮説と言えるかもしれない。症状とは正しさからの逃避であるかもしれないが、それは無駄であることによって〈正しさ〉に対する倫理となりうる。少なくとも、無駄はもっと無駄遣いしなければならない。

 無駄な酒と無駄な音楽と無駄な時間を商売にしている私としては、それが無駄であればあるほど、その無駄の有意義さは客人たちと共有される… という意味で無駄化する。イベントや集客などに結びつかなければなおさら、無駄が純粋化していくのかもしれない。(それで私は客の少ないライブやヒマな店が好きなのだ!)正しさという有意義さの無駄化を基底にして、そこから… この酒場という場から無駄の有意義化を始めていたい… 常に… いや、なるべく…。そこに倫理性が生じる可能性はある… そういうやり方はある種のアナキズムに近い… かもしれない。それにしても… 無駄はもっと無駄遣いしなければならない。

<参考文献音源>
「アースダイバー神社編」中沢新一(講談社)2021年
細野晴臣(トロピカル三部作)
”TROPICAL DANDY” (CROWN(PANAM)) 1975
“BON VOYAGE CO” (CROWN(PANAM)) 1976
“PARAISO” (ALFA) 1978
「観光」中沢新一・細野晴臣(ちくま文庫)1990年(初出は角川書店1985年)
「女は存在しない」中沢新一(せりか書房)1999年
「怨霊と縄文」梅原猛(徳間文庫)1985年(初出は1979年)
「全体主義の克服」マルクス・ガブリエル/中島隆博(集英社新書)2020年
「春宵十話」岡潔(角川ソフィア文庫)改版2014年(解説・中沢新一)
Roland Kirk “Volunteered Slavery” (Atlantic) 1969
「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」デヴィッド・グレーバー著 酒井隆史・芳賀達彦・森田和樹訳(岩波書店)2020年
「ベスト・オブ・ジャンゴ・ラインハルト・オン・ヴォーグ」(BMGジャパン)1997年(録音は1934−47年)

大源太ゲン

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