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大煙突とさくらのまち


歴史を知ること

過去と現在と未来はつながっています。過去の歴史や知識を知ることが、今を生きるチカラになっていきます。今を生きるチカラが集まると、未来を創造し前進していくチカラになっていきます。歴史の中には、私たちがなぜ生きているのかということ、私たちがどう生きていくことがよいのかということを教えてくれる重要な知識や智恵がちりばめられています。そして、大河のように脈々とつづいていく歴史は、今この瞬間にも私たち人間が創っているということを知っておくことも、とても大切です。
しっかりと根をはっている草木は栄養をたくさん吸収して大きく育ちます。私たちが過去から送られてくる先人たちからのメッセージをしっかりと受信し吸収する時、それは今を生きるチカラとなり、未来を創造する大きなチカラに昇華されていきます。そして、今を生きる私たちが伝えるメッセージも、未来を生きる人たちの何らかのチカラになっていくのだろうと信じています。

私たちの暮らすまちの歴史

とても幸いなことに、私たちが暮らす「日立」には「大煙突」と「さくら」という二つの宝物のような歴史があります。そしてそこには、人間としてこうありたいと思えるモデルとなるような心洗われる人間ドラマが繰り広げられていました。かつて100年前の日立では、銅山発展の弊害として起こった煙害問題に対して、加害者(企業)と被害者(住民)というまったく相反する立場の人たちが話し合いを通して協力し、世界一高い煙突を立てることで解決しました。そして、荒廃した山にオオシマザクラを始めとする木々を約1000万本植林することで緑を取り戻し、まちにはソメイヨシノを植えました。それは「人と自然と産業の共存」の歴史でもあります。「承前啓後」(※1)の言葉の通り、先人たちが昔から暮らしを通して築き上げ受け継いできた日立の歴史や、人としての在り方を大事にして体得することで、未来を切り開いていくワクワク感にあふれたまちになっていければとただただ願うばかりです。

日立の山に大煙突あり

日立は関東平野の北の終わりに位置します。東京からJR常磐線に乗って窓から見える風景を楽しんでいると、日立に近づいてくるほどに、だんだんと山と海が近づいてくることに気がつきます。初めに見えてくるのが「風神山」です。風神山(※2)(241.9m)から最高峰の高鈴山(※3)(623.3m)、御岩山(530m)、神峰山(598m)、羽黒山(490.8m)、蛇塚を経て鞍掛山(247.6m)、神峰公園に至るハイキングコースを日立アルプスと呼んでいます。この神峰山の山頂には、大煙突の歴史が刻まれたレリーフがあり、そこから大煙突を望むことができます。大煙突は三作山と呼ばれる山の標高328mにあります。残念ながら、1993年2月19日の朝、かつて世界一の高さを誇った日立のシンボル「大煙突」は、3分の1を残して突然崩落してしまいました。現在は高さ54mの雄姿を残しています。

大煙突の高さは、先人たちの志の高さでもあった。
姿は変われども、大煙突が訴えるまちづくりの心は不変である。

大煙突はまちづくりの原点

この大煙突は、日立市のまちづくりの原点です。「日立村(※4)」が誕生したばかりの明治24年(1891)頃の人口は2250人でした。明治38年(1905)の日立鉱山の創業以降、昭和58年(1983)には20万6260人のピークを迎えます。歴史にもしもはありませんが、日立鉱山が発展していく過程で発生した煙害問題を解決に導いたこの大煙突がなかったとしたら、現在の日立市の工業都市、ものづくりのまち日立はありえなかったことと思います。ただ単に賠償金を払って一時しのぎ的な解決を求めたのではなく、誠心誠意をもって、鉱山の発展をとおして「理想郷」を創ろうとした先人の深い思いと行動力に脱帽するのみです。
当時の人々に思いをはせ、100年前の偉業に感謝の思いを伝えたいと思います。「この大煙突がたとえなくなっても、この100年前の歴史と文化は風化させてはいけない。大煙突が訴えるまちづくりの心を100年先まで伝えたい」(※5)との思いが日に日に強くなるばかりです。

桜塚にさくらのまちの原点をみる

そしてもうひとつ、春のあたたかい季節になると、日立のまちはソメイヨシノのピンクに染まり、山はオオシマザクラの白に彩られます。日立市役所裏の高台にある諏訪台三角公園にもさくらが咲きます。そこには「桜塚」があります。大煙突建設で煙害が激減した後に取り組んだのが荒廃した自然の回復です。その立役者になった角彌太郎が市街地の美化も考え、ここ諏訪台をはじめとした市内各所にソメイヨシノを植栽したことを顕彰するため、昭和9年に日立製作所日立工場長の高尾直三郎が自費で建立したものです。碑文には「大正六年春 角弥太郎氏 諏訪台に櫻樹を植う 昭和九年四月十日」と直三郎の直筆で書かれています。
彌太郎は、大煙突の建設以降も、煙害に強いヤシャブシやクロマツと共に オオシマザクラなど1000万本の苗木を植えました。 またオオシマザクラの苗木にソメイヨシノを接木したものを2000本以上植え、 これが育って現在の日立市各地のさくらの名所のルーツになりました。この「桜塚」はさくらのまち日立の原点ともいえる石碑です。
自然再生の植林などの取り組みがすでに大正期に行われていたという先駆的な事例に驚くばかりで、まさしくSDGsの先駆けの偉大なる成功例と言ってよいでしょう。

大煙突とさくらは未来をつくる

日立の誇る「大煙突」と「さくら」に象徴されるもの、それは「人と自然と産業の共生」の歴史であり文化です。その根底にあるのが「一山一家」の思想です。そして一山一家の思想は「SDGs」の根幹をなす「誰一人取り残さない」の誓いそのものです。地域で暮らしながらも地球規模で物事を考えて暮らす、そんな生き方がこれからは大切になってくるのだろうと思います。
日立市は環境都市宣言(平成17年3月25日)の中で「将来の市民に対し、環境と活力の調和した、持続可能な社会を創ることが、今に生きる私たちの使命です」と宣言しています。これから持続可能な生き方や在り方について誰もが取り組むことが必要となってきている時代にあって、そのひとつのモデルに日立の「大煙突」と「さくら」がなれればいいなぁ と思います。
「Think Globally, Act Locally」(地球規模で考え、足元から行動せよ)世界中の人々が地球の未来を想い、それぞれの地域社会に小さな一灯をともす暮らしが定着することを願ってやみません。
これから日立市の「大煙突」と「さくら」が世界から注目を受け、世界中から日立の歴史を学びたい、日立市民の暮らしを共に体感したいと押し寄せる時代を想像しながらこの活動を続けていきたいと思います。

文=原田 実能

2021年2月19日に撮影した大煙突

(※1)承前啓後
先人から受け継いだものがあるから現在があり、未来を切り開けるという教え。

(※2)風神山
「かぜのかみやま」または「ふうじんやま」と呼ばれる。日立市と常陸太田市の境にある、標高241・9mの山。多賀山地の南端に位置し、南から温かい風、北から冷たい風を受け、山頂がその接点となり、強い風が吹く。

(※3)高鈴山
田中澄江さんの『花の100名山』(旧版)でセンブリの山として紹介されている山。スミレ、ギンリョウソウ、ギボウシ、ヤマジノホトトギスなど四季を通して多くの花が見られます。また、キツネ、タヌキ、リス、ムササビ、ウサギなどの小動物や野鳥も多く見られます。

(※4)日立村
日立村は、明治22年(1889)、滑川村と宮田村が合併して誕生した。茨城県は、両村の一字ずつをとって、「宮川村」と名づけるよう指定してきましたが、宮田村村長の根本兼松(初代日立村村長)がその取り消しを要求。水戸光圀が神峰山上の神峰神社で山籠りして、太平洋から朝日の立ち昇る光景を見て「水戸領内第一」と言ったいう故事にちなんで「日立」の村名を選んで県に報告したことで「日立村」となった。

(※5)大煙突が訴えるまちづくりの心を100年先まで伝えたい
という思いから「大煙突とさくら100年プロジェクト」を2021年7月にスタートしました。
このプロジェクトは、日立市のまちづくりのシンボル「大煙突」と「さくら」の100年前の「人と自然と産業の共生」の史実を再認識し、100年先の子どもたちにこの史実を伝承する活動を行っています。また、この共生の精神を原点として、持続可能なまちづくりを推進し、SDGsの達成に資する活動を展開しています。
紙芝居上演チーム(上演チーム)、史実と歴史を伝える活動チーム(伝えるチーム)、史料編纂チーム(編纂チーム)、大煙突とさくら月間活動チーム(イベントチーム)、環境学習推進チーム(学習チーム)、環境都市宣言研究チーム(研究チーム)、さくらの景観づくりチーム(景観チーム)、大煙突とさくらのDMO設立準備チーム(DMOチーム)の8つのチームがあり、それぞれのチームが自律・連携して活動を進めています。

【主な参考文献】
「ハイキングクラブのんびり」(日本勤労者山岳連盟所属)
https://www.hc-nonbiri.com
「ひたち風」(日立市公式シティプロモーションサイト)
https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/
『日立鉱山煙害問題昔話』(関右馬允/郷土ひたち文化研究会/1963年)

※写真は、原田実能氏撮影。

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