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煙害発生


煙害とは

銅を含む鉱石には20パーセントを超える硫黄分(元素記号S)が含まれています。これを高温で溶かし銅を製錬するとき、空気中の酸素(O2)と反応
し、二酸化硫黄( SO2、別名、亜硫酸ガス)が発生します(S+O2 → SO2)。当時は、亜硫酸ガスを回収(無害化)する技術が確立されていなかったため、煙突から屋外に排出していました。
亜硫酸ガスは刺激臭があり、高濃度の亜硫酸ガスを吸入すると、気管支や肺に炎症をおこします。空気中に拡散した亜硫酸ガスは、農作物や樹木にも悪影響を及ぼしました。葉の表面にある気孔から侵入し、組織が破壊されて枯れてしまいます。近隣の森林や畑等がこの被害を受けました。このことを煙害といいます。
銅製錬に伴う亜硫酸ガスによる煙害は日立鉱山以外、秋田県の小坂鉱山、栃木県の足尾銅山(※1)、愛媛県の別子銅山でも同様に発生し、大きな社会問題となっていました。

被害の範囲

本山に製錬所があった頃の煙害は、付近の国有林や入四間地区に限られていましたが、大雄院に移転後は銅の生産が増えるにつれ排煙量も多くなり、大雄院製錬所から本山にかけての山林は枯れ、禿山となってしまいました。
また、近隣の町や村にも被害が広まり、明治42年(1909)には日立村(現在の宮田町、白銀町、本宮町、東町、滑川町、東滑川町、滑川本町)をはじめ、黒前村(現在の十王町の高原、黒坂、山部)、豊浦町、日高村、高鈴村、中里村、鮎川村の1町6カ村に被害が広がってしまいました。さらに山林の被害は、多賀郡国分村(現在の千石町、金沢町、大久保町付近)や久慈郡佐都村(現在の常陸太田市の南部)まで拡大していきました。
明治44年(1911)には2町10カ村に農作物の被害、山林は3町18カ村(高萩市の一部、日立市全域、常陸太田市の一部)にまで広がりました。加えて、水戸徳川の墓所である瑞龍山や西山荘まで被害が及んでしまいました。

煙害の範囲(年代不詳)

大煙突建設前年の大正3年にはさらに被害が拡大し、4町30カ村に達し、特に煙草や蕎麦の被害は甚大でした。最も被害が大きかったのは入四間地区であり、特に夏は海から吹く南東の風が被害を拡大させてしまいました。入四間の住人は生計の維持ができなくなるのではないかと将来を悲観し、故郷を捨て栃木県の那須野へ集団で移住することも検討されました。

被害を受けた農作物や樹木

煙害の被害は、入四間の蕎麦や水府村の煙草をはじめ、麦、大豆、小豆、蒟蒻、さつま芋、果樹、桑などに加え、水田のイネにも及ぶようになりました。山林では、栗、赤松や欅等が枯れてしまいました。

煙害の被害の様子

文=篠原 順一

(※1)足尾銅山
足尾銅山では足尾鉱毒事件が有名です。亜硫酸ガスにより、周辺の山林が荒廃し、それによって渡良瀬川が氾濫しました。また、鉱山から重金属を含む排水が同河川に流入し、農作物に大きな被害が発生しました。

【主な参考文献】
『大煙突の記録―日立鉱山煙害対策史―』(株式会社ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社/1994年)

※写真は、日鉱記念館からご提供いただきました。

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