見出し画像

煙害問題の解決


大煙突の使用開始

大煙突は、大正3年(1914)12月20日に本体部分が完成し、その後煙道等の付帯工事を終え、大正4年(1915)3月1日午後0時半に煙を吐き出し始めました。

大煙突

角彌太郎は、使用開始された時の喜びを以下のように書いています。

大正四年三月一日、待ちに待った火入の時は来た。此日天気晴朗、今か今かと煙突の頂上を眺めて居った。火が入った。直ぐに濛々と煙は立ち上った。上に上にと、どこまでも、高く空中に上昇して、一つの雲を画いた。そして煙は、空中に飛散した。之を直視した私の日頃の悩みは一時に去った。飛び上がって喜んだ。手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜びであった。涙がこぼれた。私は未だ嘗て、こんな喜びを味わったことは一度もない。煙害問題解決と云う、私の使命は、ここに一段落を告げたと、一層の喜びを感じた。

(『大煙突の記録』より)

大煙突の基盤の標高は330mで、大煙突の高さは155.7mなので、大煙突の排煙口は約500mとなります。大煙突から出た煙は、神峰山頂付近で常に吹く西からの強い風に乗って、東に広がる太平洋に飛んでいったのです。

大煙突建設の効果

大煙突完成によって、地元の被害がどのように変化したか、関右馬允は、日記「煙害調査記録」に次のように記し、この大煙突の事業に最大級の賛辞を送っています。

煙害は、大煙突の出現によって激減したが、被害がなくなったわけではなく、湿度と気流の関係で年に一回くらいは、意外な被害が現れてびっくりしたことが数回あったが、大被害の試練済みの被害者側は動揺することもなく、委員に任せきりで安心していた。こんな平安な状態は足尾や小坂や別子では想像されない現象ではあるまいか。
入四間宿が集団移転の苦杯をなめずにすんだことを思えば、大煙突を計画した久原さんの卓見と、設計から完成までの労苦に対し、敬虔な感謝の意を表する。
総理大臣になるよりも、億万長者になるよりも、こんな偉大な建造物を地球の基盤に取り付けて、幾万の人間の災害を軽減除去することは、人間として至高至大の生きがいではあるまいかと思った。

(日記「煙害調査記録」より)

煙突完成後、煙害を調査した多賀郡煙害調査会は「大煙突の排煙開始後は煙の地上に接すること少なく、吐煙は帯状をなして高く空中を風に吹送せられ、ついに消散せらるるに至る」と評価し、被害状況は顕著に改善されているとして、約一年半の調査の後、会の調査を終結させています。

補償金の減少

この、煙害減少の事実を示す指標の一つとして、煙害補償金の支払い・受領額があります。日立鉱山全体としての支払額は、大正3年(1914)度の約24万円をピークに、その後昭和7年(1932)の約4万円まで大きく減少し、二度と危機的な状況を迎えることはありませんでした。
煙害補償金の減額以上に実際の被害は減少しており、大正13年(1924)頃の官庁に対する報告書のメモでは、「除害設備たる大煙突完成以来、煙害状況全く一変し、久慈郡、多賀郡の一部の一部で若干の痕跡を印すものの、低煙突当時被害の中心であった日立、助川の各町村では全然被害の顕出を認めず、補償金は被害の結果そのものではなく、農作物は低煙突当時以来多年の関係により特に農事改良費として支出しており、林産物に対しても、林産物は連年収穫するものではないので、低煙突当時の被害により完全に生産力を回復していない地方では、好意的にこれが復旧時期まで補償を継続する必要がある」として、日立鉱山側が住民の立場にたって対応していたことが示されています。

完成後も気象条件により煙害が発生

大煙突が完成して煙害は激減しましたが、気象条件によっては農作物や山林に被害が発生しました。気象、季節、地形等の要素の中のいくつかの悪条件の組合せで、一方向に風が続けて吹き、特に煙突の上層に逆転層の発達するような気象条件の場合には、地表に煙が落下します。これに作物の発芽期あるいは煙に特に敏感な作物という事情が加わると、大煙突建設後でも、煙害が発生したのです。特に東風で内陸に煙がなびく時や、風が弱く雨模様の時にひどい被害が発生しました。

気象観測に基づく制限溶鉱

そのため、大煙突を中心に半径約10キロメートルの範囲に神峰観測所のほか10数か所の観測所や煙監視所を設置し、監視員を常駐させて大煙突から排出された煙を観測しました。これらの観測所や煙監視所と神峰観測所の間は電話線で結ばれ、観測の状況を神峰山の観測所に伝えました。
煙害の被害が予測される場合は溶鉱炉を管轄する製錬課に通報して、溶鉱炉の通風量の削減などの方法により、煙の排出を減少させるようになりました。これを制限溶鉱といいます。
日立鉱山の経営方針は、営利は唯一の目的ではなく、被害地農民の保護を主としていました。煙害を最小限に止めるため、気象観測上、煙害が予測されるときは、昼夜を問わず製錬課に警報を発して、溶鉱炉の送風を制限して排煙を縮減しました。この警報は気象観測の主任が行うため、気象観測者の責任は重大でした。

硫酸工場(※1)の建設でほぼ解決

昭和26年(1951)、製錬所の亜硫酸ガスを原料として硫酸を製造する排煙利用硫酸工場ができたことで、煙害問題にほぼ終止符(※2)が打たれました。
それによって、神峰山の観測所はその役割を終えて日立市に移管され、昭和27年6月1日「日立市天気相談所」ができました。日立市天気相談所は、全国の自治体の中で唯一直営で気象予報業務を行う天気相談所として、現在も運用されています。

文=福地 伸

一千尺超高煙突構想
日立の大煙突を構想した時、もしその煙突の効果が思わしくなかったら、さらに、一千尺(303メートル)くらいの煙突を建設しなければならないかもしれないというので、その設計も試みていました。久原房之助はその手始めとして高層気象の観測を命じたそうです。大正7年末、第一次世界大戦は終わり、それとともに経済は沈滞し、銅の需要は落ち込んで、日立の製錬所の溶錬鉱量の増加の見込みもなくなり、一千尺超高層煙突の構想も中止されました。

高層気象観測
日立鉱山による高層気象観測のきっかけは、山神祭のさいに、大きく「山神祭」の文字を胴体に書いて飛ばした大型の繋留気球のアドバルーンでした。気球を高層気象の観測に使うという着想は、当時国内ではどこにもない初めてのことでした。記録では大正4年12月8日の滑川観測所のデータが最初で、大煙突が発煙し始めてから9カ月後のことですが、すでに、大煙突建設のためのデータを約1年にわたって収集していたことがわかっています。

(※1)硫酸工場
大煙突建設前に亜硫酸ガスを硫酸にして処理する計画があった。技術者たちの努力によって明治44年に硫酸工場が建設され、稼働し、硫酸化に成功したものの、当時は硫酸が売れずに工場は閉鎖された。

(※2)煙害問題にほぼ終止符
硫酸工場の建設により、大煙突から排出される亜硫酸ガスは、硫酸製造に不向きなガス濃度の低い溶鉱炉のガスだけになり、大気中に排出される亜硫酸ガスの量は約2分の1になった。
最終的な終息は、昭和47年に稼働し始めた自溶炉により、亜硫酸ガスが全量硫酸工場に送られるようになった時にもたらされた。

【主な参考文献】
『大煙突の記録―日立鉱山煙害対策史―』(株式会社ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社/1994年)
『日立鉱山煙害問題昔話』(関右馬允/郷土ひたち文化研究会/1963年)
月刊『地図中心 572 号 特集日立市=最古×最先』(日本地図センター/ 2020年)

※写真は、日鉱記念館からご提供いただきました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?