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【コラム】 久原房之助のその後の活動

大煙突が完成した大正4年(1913)以降、久原房之助は大分県佐賀関製錬所、朝鮮鎮南浦に大規模製錬所を建設、どちらも日立の大煙突を越す世界一の大煙突を建てています。

続けて、国内各地の鉱山を次々と買収し、30以上の鉱山を開設、朝鮮の甲山鉱山やフィリピン、ボルネオ等東南アジアの鉱山開発を進めました。

大正6年(1917)には、山口県の周南地区に、イギリスの大工業都市マンチェスターを目指した下松大工業都市計画を発表しています。
造船などの工場を中心にして、下松地域に面積160万坪、人口18万、工場地帯と労働者の居住地帯を結び、学校・公園・文化施設等を整備した職住一体の理想工業都市をつくるという壮大なプランでした。
この計画は、世界情勢の変化やアメリカの鉄鋼禁輸令によって事業中断をやむなくされ、幻の計画となりました。

造船工場は、独立したばかりの日立製作所、小平浪平に引き継がれ、国産の蒸気機関車を製造する笠戸工場になり、現在は、新幹線車両など鉄道車両を製造する笠戸事業所となっています。

この頃の久原鉱業は、鉱山業だけでなく、造船、肥料、輸出なども扱い、商事会社、生命保険会社等多業種の経営をしていました。その後、大正末になると久原鉱業は、世界的不況の中で経営困難に陥り、久原房之助は義弟の鮎川義介に事業再建を託して、実業界から政界へと転身します。

鮎川義介は事業改革を行い、久原鉱業を日本産業株式会社として、日本鉱業、日立製作所、日本水産、日産自動車等をグループ化した日産コンツェルンへと事業を拡大させました。

政治家になった久原房之助

昭和3年(1928)、立憲政友会に入会した久原房之助は、普通選挙の最初となる衆議院選挙で当選し、田中義一内閣で逓信大臣に就任。昭和14年(1939)には立憲政友会第8代総裁に就任しました。

久原は、日本に亡命してきた中国の革命家孫文を支援する等、政界の黒幕、惑星などと呼ばれるようになります。
戦後政界を引退してからは、日中・日ソ国交回復国民会議会長に就任して、中国では毛沢東・周恩来と会談、ソ連ではミコヤン副首相と会談するなど、民間外交による両国との国交正常化に尽力をしています。
 
文化面では、貴重な古典籍や仏教書、近世文学などを収集した久原文庫を遺し、東京の五島美術館に所蔵されています。

文=大畑 美智子

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