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煙害解決への模索


農事試験場

日立鉱山では亜硫酸ガスが農作物や樹木に及ぼす影響を調べるため、明治42年(1909)に日立村字宮田福内(現在の本宮町、神峰町付近)に農事試験場を置きました。その後、宮田字繁十作(現在の宮田町3、4丁目)、駒王作(現在の神峰町3、4丁目)、芝内(現在の池ノ内付近)にも開設しました。
大煙突完成後は被害状況が大きく改善され、宮田方面に煙が来ることがほとんどなくなったため、これらの試験場は芝内を残して廃止しました。その後を継いで主力となったのは石神村(東海村)に設置した試験場でした。

石神村の農事試験場

農事試験場ではどの作物が煙害に強いのか、弱いのか、燻煙器(※1)を用いて調べました。農作物の煙害に弱い順は、蕎麦、煙草、菜類、小豆、大豆、玉ねぎ、サトイモ、トウモロコシであることがわかり、山林の樹木では栗、赤松、黒松が弱く、逆に煙害に強いのはヒサカキ、ツバキ、ヤシャブシ、オオシマザクラなどであることがわかりました。

燻煙器

これらの試験データは、煙害を補償するときの基準(目安)となり、公平な補償に役立ちました。また、煙害に強い樹木を選定し、その後、1000万本に及ぶ植林を行うことができました。

気象観測所の設置

煙害は、気象によって左右されることから、明治42年(1909)、大雄院構内に気象観測所が設置され、気圧、気温、湿度、雲を観測し、また、大白峰に設置した風向・風速計により、風の向きや強さを観測しました。
この観測所は、明治43年(1910)、観測内容の充実を図るため、標高594mの神峰山の山頂に移転しました。観測は午前10時の1回でしたが、煙害がひどくなってきた大正2年(1913)頃からは一日6回の観測を行いました。

神峰山の観測所

煙害と山頂気象を結びつけたことは、当時としては画期的で、気象観測データは客観的資料として排煙対策と煙害被害の判定に活用されました。

調査及び科学的データに基づく煙害の補償

煙害問題については、鏑木徳二(※2)が中心となって取り組みましたが、その内容は被害地域の調査、被害率の決定、耐煙性樹木等の選定など、多岐にわたりました。
煙害による樹木や農作物への影響については、鏑木徳二が考案した燻煙器を用いて行いました。試験内容には数種類あり、その一つに被害時期別収量調査試験があります。これは作物の生育時期と亜硫酸ガス濃度の関係によって、収穫量が大きく変動することを捉えて、生育時期別に亜硫酸ガス濃度を変えて、その影響を観察するものでした。この結果が補償額算定の基礎データとなりました。
補償額の算定方法は農作物と樹木(山林)の二つに分けられます。
農作物の補償は、例えば多賀山間部の事例では石神試験地のデータに基づき、大豆を100とし、小豆100、サツマイモ30、里芋10、大根・人参・ナス・キュウリ等30の被害割合を定め、その年の作況、価格等を踏まえて被害額の算定を行い、これに精神的慰謝料を含めて、被害者が納得する内容で補償していました。
樹木(山林)の補償は、試験データを基に①松、②杉・ヒノキ、③雑木、④クヌギ、⑤竹林、⑥桐の6種類に分類し、一町歩(3000坪)当たりで植栽後何年目に伐採すると最大利益を生むかを捉えて、被害年次等から補償額を算定しました。また、間伐や運搬費用なども織り込んでいました。

煙道・煙突の設置

神峰煙道は、明治44年(1911)、約1.6kmの煙道を神峰山に沿って建設されました。空気と混ぜて亜硫酸ガスの濃度を薄めることを目的に煙道の中間に二百馬力の送風機を据え付け、神峰山の中腹より上の煙道に開けた10数か所の排煙口から煙を排出しました。低く狭い場所に閉じ込めて煙害を防ごうとし、その様は遠くから見ると大きなムカデが山を這い上がって手足を震わせているように見えたことからムカデ煙道とも呼ばれました。

神峰煙道

神峰煙道は、大正4年(1915)まで使用されましたが、分散して排出した亜硫酸ガスは、合流して大きな塊となってしまい、その塊は入四間方面に流れ込んだことから煙害は改善されませんでした。
ダルマ煙突は、国の排煙ガス濃度制限命令により建設されたものであり、大正2年(1913)に完成しました。高さ36m、内径約18 mの煙突の底部には13個送風口が設けられ、内側に卵形をした6個の小さな煙突のようなものが取り付けられてました。

大煙突建設前のダルマ煙突

送風口から大量の空気が入ることにより、亜硫酸ガスの濃度は排煙ガス濃度制限命令による基準を下回りましたが、煙害の被害はおさまりませんでした。
亜硫酸ガスは、空気より重い性質があり、それが空気(外気)と混ざることによって、熱が奪われてさらに重くなったことから拡散せず低く流れて山越え、一層煙害を悪化させました。人々は、国の命令で造った煙突なのにまったく役に立たなかったことから阿呆煙突と呼びました。

文=篠原 順一

(※1)燻煙器
燻煙器は燃焼室(ガス発生室)と被培室(観察室)の二つに分かれており、燃焼室で人工的に亜硫酸ガスを発生させ、これを隣の被培室に入れた農作物などに接触させて、その影響を調べる装置

(※2)鏑木徳二が中心となって
煙害問題への対応全体の指揮を角彌太郎が取り、鏑木徳二は煙害に強い作物や樹木の選定、被害調査などの煙害対策の実務の中心となり、山村次一が植林を担当した。

【主な参考文献】
『大煙突の記録―日立鉱山煙害対策史―』(株式会社ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社/1994年)
『林業人にして初の公害博士 鏑木徳二氏の生涯』(日鉱記念館/2009年)

※写真は、日鉱記念館からご提供いただきました。

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