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一千万本の植林


荒廃した山々に500万本の植林

日立鉱山の植林は、はじめ煙害で荒廃した大雄院製錬所付近の土砂崩れ防止のために実施されました。
その後、山々に緑を取り戻すため、大煙突が完成した大正4年(1915)以降、本格的に植林が行われました。植林したのは煙害に強いオオシマザクラをはじめ、ヤシャブシ、黒松、杉、アカシア(※1)などであり、その面積は社有地、国有林などを含め約11.9平方キロメートル(東京ディズニーランド約23個分)の広さに及びました。また、植林した本数は、約5百万本に達すると推定されています。
植林した苗木の種類別面積は、オオシマザクラが一番広く約5.9平方キロメートル(東京ディズニーランド約12個分の広さ)、杉は約1.1平方キロメートル、黒松約1.2平方キロメートル、その他ヒノキや赤松など約4平方キロメートルでした。
また、工場や社宅周辺には、農事試験場でオオシマザクラに接ぎ木したソメイヨシノのほか、ポプラ、プラタナス、ユリノキなどを植え、緑豊かなまちとなっていきました。
これら日立鉱山による植林は、明治42年(1909)から昭和7年(1932)頃までの約20年、長きにわたって実施されました。

現在でも4月中旬大煙突周辺にオオシマザクラがたくさん咲く。

無料配布された513万本の苗木

日立鉱山は植林とは別に、希望者に無償で苗木を配布しました。その種類は黒松、オオシマザクラ、杉などが多かったようです。
この無償配布に関連して見事な杉の山林を創り上げた話が関右馬允の『日立鉱山煙害問題昔話』に記されています。関は煙害で荒れ果てた山林について、金銭補償を受けているが、金銭では山林の生産力は回復せず、山林の荒廃に疑問を抱き、「被害地の林相を回復するために、今後植林する苗木を無償交付してもらいたい」と要求し、杉を主体にクヌギやニセアカシアなどを交えて10万4千本の苗木の無償配布を受けました。この苗木によって入四間宿、笹目両部落に推定約40町歩(約0.4平方キロメートル)の美しい山林が再生されたということです。関は「私の煙害委員在職35年間の最大の足跡と思う…」と述べています。
大正4年(1915)、大煙突の完成とともに日立町など17町村に約29万本の苗木を配布し、植林した結果が良好であったことから配布範囲を広げ、大正9年(1920)までに350万本、昭和12年(1937)には513万本を配布しました。日立鉱山による植林と合わせると1千万本以上の苗木を日立周辺の山々や市街地に植林し、オオシマザクラを中心とした緑豊かな自然を取り戻すことができました。

無料配布された苗の地区別本数

オオシマザクラからソメイヨシノへ、そして山からまちへ

オオシマザクラは伊豆大島の噴煙地帯に自生する桜であり、農事試験場の燻煙器の試験でも煙害に強いことが分かったので、当初から植林されていました。その後、オオシマザクラの種から苗木を育て植林しようとしましたが、種は乾燥に弱いことからなかなか発芽せず、失敗の連続でした。育苗を始めて3年目、ゴミ捨て場を片付けていたところ、捨てた種の一部が見事に発芽しているのを偶然発見しました。これを境に種の保存方法等が確立され、大量に苗木を生産できるようになり、日立鉱山の植林と無料配布を合わせてオオシマザクラ約330万本を山々に植林することができました。
オオシマザクラの苗木がうまく育つようになると農事試験場の担当者は、この苗木にソメイヨシノの苗を接ぎ木して桜の苗木を多量につくり出しました。角彌太郎はこの花の美しさに着目して大正6年(1917)の頃に社宅、道路、鉱山電車沿いに約2000本を植えさせました。これが日立市の春を彩るソメイヨシノのルーツといわれています。
日立市役所の西側の高台(旧日本鉱業諏訪台社宅跡地)の一角に桜塚と刻まれている石碑があり、そこには「大正六年春 角弥太郎氏 諏訪台に櫻樹を植う 昭和九年四月十日」と記されています。

桜塚

その後、久原鉱業から派生、独立した日立製作所は、企業発展と共に昭和初期までに社宅、病院、体育施設など福利厚生施設(※2)の敷地内に数多くの植樹を行いました。

文=篠原 順一・内山 茂身

(※1)アカシア
正確には「ニセアカシア」。ニセアカシアは、明治初期、日本に導入された当時「アカシア」と呼ばれていたが、実際のアカシア(「ミモザ」と呼ばれ、黄色い花が上向に咲く)とは分類学上の「属」が異なる。(アカシアはマメ科アカシア属、ニセアカシアはマメ科ハリエンジュ属)。初夏に白い花が咲き、フジのように花穂が垂れ下がる。花は美味しいハチミツ源となり、養蜂家が重宝する木である。ニセアカシアは、学名「Robinia pseudoacacia」を和訳した名前であり、和名は「ハリエンジュ」である。

小坂鉱山と別子銅山での植林
日立鉱山と同様煙害で山々が荒廃した小坂鉱山と別子銅山でも、植林が進めらた。
小坂鉱山では農事試験場が作られ、明治42年煙害防止の耐煙木アカシアが300万本植林されている。現在、小坂町の明治百年通りの並木道には、6月になるとアカシアの白い花が咲き、甘い香りが漂う。アカシアのはちみつは小坂町の名産となっている。
四国の別子銅山では、住友の2代目総理事伊庭貞剛により行われた煙害対策の大造林計画が、現在の住友林業の元になっている。
一方、足尾銅山では植林が遅れ、ハゲ山のままとなっている場所が多い。

(※2)福利厚生施設
熊野神社、桐木田グラウンド、修井寮、会瀬社宅、山根社宅、上の内社宅、石内社宅、日立総合病院、多賀病院、その他多数

【主な参考文献】
『大煙突の記録―日立鉱山煙害対策史―』(株式会社ジャパンエナジー・日鉱金属株式会社/1994年)
『日立鉱山煙害問題昔話』(関右馬允/郷土ひたち文化研究会/1963年)
『日立のさくら:ルーツと歩み』(日立市郷土博物館/1998年)
『無名の碑 桜塚 隠れたる先駆者の軌跡』(三浦隆/2005年)

※写真・図表は、日鉱記念館、井手義弘氏、原田実能氏からご提供いただきました。

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