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本山に理想都市を 一万人が暮らすまちに


東北や茨城北部から日立へ

日立鉱山では大正時代前半には、第一次大戦の影響で生産量が拡大し、従業員数がめざましく増加しました。創業当初の明治39年(1906)に職員36人、鉱員404人、合計440人だった従業員は、大正6年(1917)には、職員616人、鉱員7509人、合計8125人になりました。
創業当初の従業員たちは、赤沢銅山で働いていた人、久原と共に秋田県小坂から来た人、東北から来た人などがほとんどでした。しかし、だんだんと茨城県北部の農村からの出稼ぎが増え、東北方面からも親戚や知人を頼って、多くの労働者が集まってきました。

一山一家と日立気風

藤田組から独立し、赤沢銅山の開発を決めたとき、久原房之助には夢がありました。
「自分の開くこの鑛山とその附近一帯の地に、浮世の荒波から忘れられた一つの桃源郷を造りだそう」(『日立鉱山史』より)というもので、鉱山に働く労働者と会社の対立や企業と地域との対立などがまったくない、楽天地のような鉱山をつくりたいという思いでした。これが鉱山運営にあたって基本に掲げた「ユートピア(理想都市)」構想でした。
自分の鉱山(一山)に働く者たちみんなが、一つの家族のようになって働く鉱山社会を実現したいと考え、日立鉱山を「一山一家」の鉱山にすることを目標にしました。
久原房之助は日立鉱山に働く者がよその鉱山より常に「一歩抜きんでる精神を持つ」ことを望み、所員に向けて「一体自分がこの鉱山をやっているのは、飯を食うためではない。一つの団体をつくってみたいと思うためなのです。(中略)日立から来た人間は、どこかに特長があるといわれるように、日立気風(※1)というものを作りたいと思っている」(「通俗鉱山事業物語」より)と語っています。

日立鉱山はオラがヤマ

先行する財閥系の鉱山が多い中で、新しく出発する日立鉱山が掲げた「一山一家」や「一歩抜きんでる精神」は、鉱山に働く者の共通の目標・支えとなっていきました。
「日立鉱山はオラがヤマ」(※2)という合言葉のもと、鉱山と労働者は共に生きるのだという信頼関係に立って、質実剛健、質素倹約をモットーに、「一山一家」の精神を大切に守り伝えていきました。

本山に理想鉱山都市づくり

久原房之助の理想鉱山都市づくりは、「働く人たちが暮らしやすく住みやすいまちをつくること」、「自然環境や地域と共存共栄ができるまちづくりをすること」を目標に始まりました。
創業にあたっての第一の仕事は鉱山施設の整備で、次に大きな課題となったのは労働環境や生活環境の整備でした。
鉱山を支える技術者、採鉱や抗内でのさまざまな作業に関わる鉱夫たちの生活環境を早急に整備する必要がありました。
当初は、若い技術者の単身者は鉱山事務所の近くの合宿所で共同生活をし、鉱夫たちは宿泊施設となる飯場(※3)に寝泊まりをしました。

鉱山生活のインフラ整備

鉱山生活のインフラとして、社宅や付属病院、警察署、郵便局、学校等が次々に整備され、供給所も創設されていきました。明治39年2月には、付属診療所(本山病院)、翌年には大雄院診療所(大雄院病院)が開設されます。日立鉱山尋常小学校(本山小学校)は開校時には3学級91人でしたが、好況時には2400人もの児童数になっていきます。
労働者が増えるとともに鉱山の周辺には労働者相手の商店(※4)が増えていきました。

一本杉付近の商店街は、大勢の人でにぎわっていた。

家賃も電気も水道もみんなタダ

交通の便が良かったことや、雪の降らない気候に恵まれた土地柄、給与は安いが、住みやすく暮らしやすい、福利厚生政策が充実していた等が、流動性が高く、定着をあまりしない鉱夫の人たちを、日立に落ち着かせたようです。
日立鉱山の急速な発展の様子や労働者への福利厚生の充実は、優れた事例だとして全国的にも評判となり、多くの見学者(※5)が訪れています。
人口が増加するのに伴って、本拠地となった本山には社宅や商店街がつくられて、一本杉から掛橋付近が鉱山町の中心部となり、本部通りと呼ばれてにぎやかになっていきました。
石灰山、大角矢、熊の沢、入四間など、山の斜面、谷あい近くには長屋が次々に建ちました。山のてっぺん近くの石灰山社宅等は、6~8軒つながりの長屋でした。何軒もの長屋が、連なって並んでいたのでヒコーキ長屋(※6)やハーモニカ長屋と呼ぶ人もいました。
差別感をなくすため、職員の住宅は表向き質素にした単独や二戸建て、鉱夫長屋は共同便所、共同炊事場でした。家賃や電気、水道もみんなタダ、家にかかる税金も鉱山持ち、障子の張り換えや畳換えも鉱山の負担で行われていました。

石灰山社宅番外地(通称ヒコーキ長屋)

なんでも揃った供給所(※7)

開業早々の明治39年に本山供給所が創設されると、大正7年には石灰山、大角矢など、本山各地区に、8カ所の供給所が設けられていきます。各地区の供給所は、当初は毎日午前6時から午後5時まで開いていました。
米、味噌、醤油、衣料品、薪・炭、文具、雑貨、生活必需品等460種以上の品物が、市価より1、2割安く販売されました。初期の頃は供給品通帳が交付されて、月末支払賃金より差し引くという制度でした。
米は特別扱いで一升に月18銭とした定米制度があり、家族の人数・年齢等に応じて、市価にかかわらず鉱山が一定補償をすることで、その分預金をさせる仕組みになっていました。
この時代全国で起きた不景気による米騒動の時も、日立鉱山ではこの制度があり、騒ぎは起きませんでした。

最盛期には一万人が住んだ本山

鉱山の発展に合わせ、本山には小学校、夜間学校(※8)、病院、柔剣道場、郵便局、劇場などが次々に整備され、従業員の住む地区ごとに供給所、共同浴場、集会所、床屋等がつくられていきます。グラウンド、プール、テニスコート等を整備した地区もでき、最盛期の大正6年頃は一万数千人が住む鉱山町となりました。
菊や盆栽などの園芸、音楽や演劇活動、俳句や文芸サークル、剣道や柔道、ラクビー等も盛んに行われて、和やかで活動的な環境が育ち、本山から現在の日立の文化・スポーツ活動につながる源流が生まれていきました。
子どもの出生届なども鉱山が行ない「ゆりかごから墓場まで」といわれる手厚い福利厚生施策に支えられる鉱山社会の生活でした。
昭和30年代頃から高度成長の中で、生徒数増の本山中学校(※9)を改築して日立一高定時制分校(※10)を併設。人材育成の資源開発学院(※11)を開設。社会環境変化に合わせて、社宅も鉄筋コンクリートのアパート群が立ち並びました。

鉄筋コンクリートのアパート群。昭和47年頃社宅・長屋がほとんど鉄筋コンクリートになり、大雄院地区・本山地区の大部分の社宅がアパートになって、大角矢・入四間の社宅がなくなっていった。

本山劇場の建設

危険と隣り合わせの仕事をする鉱夫たちが居住する本山では、酒や喧嘩、賭け事等による問題が多発していました。山中で娯楽の少ない従業員の慰安のために大正2年(1913)8月に本山劇場(※12)が開場しました。
本山劇場は商店街の中心の所から階段を100段以上登ったところに、木造3階建、800人が入ることができる規模で建設されました。

日立鉱山最初の劇場「本山劇場」

1階は椅子席、2階3階は畳席になっていて、山神祭の時等は、舞台の裏側の戸を外し、観客は裏山に作られた階段状の桟敷から見ていたそうです。
歌舞伎、演芸、音楽会、展覧会等が催され、従業員だけでなく地域住民にも開かれた本格的な劇場で、共楽館とはほぼ同じ催しを行い、お互いに競い合っていました。
年に一度の山神祭には従業員と家族だけでなく近郷近在から多くの人が訪れたといいます。

本山劇場は日立の文化活動の原点

当時の鉱山ではお酒や喧嘩が多く、日々の労働や家庭に悪影響を与えるため、各地の鉱山や炭坑で禁酒会が組織されました。日立鉱山でも禁酒会が本山地区で組織されました。
禁酒会主催の講演会や家族慰安会等が本山劇場では頻繁に開催され、子ども会、地区、坑夫の所属する組等の余興・演芸も盛んに行われ、劇場はヤマの生活文化を豊かにするために使われました。
本山劇場は従業員のサークル活動の拠点となり、従業員による素人演芸会、音楽会や演劇活動などが展開されていました。また、小学校の学芸会やクラスごとの演劇会等も頻繁に行われ、山を越えた隣接地域への芝居巡業や各地区での映画上演会も盛んでした。これらの活動は、現在の日立市民の文化活動につながっています。
本山劇場は、昭和56年に日立鉱山閉山と共に閉じられ、閉山式は本山劇場で行われ、その後建物は取り壊されました。

日立鉱山の山中友子

鉱山の友子(※13)坑夫は、江戸時代頃から各地の鉱山で技術を持つ親方について技を教えてもらい、腕を磨きながら各地の鉱山を渡り歩いていたといいます。  
日立鉱山には久原房之助と共に小坂から来た友子や赤沢銅山で働いていた友子坑夫がいました。
本来、友子組織はその鉱山一山の中での技術継承や相互扶助の山中友子の付き合いを主とする組織ですが、全国組織とのネットワークを持っていました。
友子になるには、親方に弟子入りをして3年3月10日の修行をした後、取り立て免状を手にします。その後は、取り立て免状を持ち、各地の鉱山で働くことができました。

友子取り立て式では、親方の弟子(仮の親子関係を結ぶ)になるため、山神と仲間の中で誓いの盃を酌み交わしました。

日立鉱山には各地の官営鉱山等から技術の高い友子坑夫が集まり、「日立鉱山山中友子」として技術継承、相互扶助の友子組織が作られていました。親方の元で、鉱山技術を磨き、新しく友子になる(出生する)ための「日立鉱山坑夫取り立て式」が本山劇場などで行われ、結婚式と同様の祝い事をし、日立鉱山から出生した友子坑夫と認められました。

山中友子の仲間や近隣の鉱山から客を招いて「日立友子坑夫取り立て免状」を渡す儀式が行われる。

文=大畑 美智子

(※1)日立気風―日立精神・スピリット
明治42年7月、大雄院・日立鉱山事務所落成の際に語った「日立気風」。日立精神、日鉱精神と呼ばれ「人より一歩抜きんでる」気風と開拓者精神で「仕事のためには妥協せず論議を交わし決定後は一致協力、共同目的達成に励む」というもの。

(※2)日立鉱山はオラがヤマ
明治時代炭坑や鉱山などを中心に、「すべての労働者が全部一つの家族である」という考えが生まれた。みんなが安心して「働ける環境」を作り「苦楽を共に連帯する」、職住一体の強い絆を持つ鉱山に浸透した。日立鉱山は労使関係、福利厚生の充実で人間関係が良い、家族的な鉱山と周辺から評価されている。

(※3)飯場
経営者である飯場頭が、鉱夫の募集、雇い入れ、作業の請け合い、管理などや、日常の衣食住に関わる管理などを鉱山主に代わり行う。間接的な労働管理を行なった。本山には4つの飯場があった。

(※4)昭和初期の日立鉱山本山商店街 
本山本部通り、一本杉周辺29軒:缶詰・漬物、青果、鮮魚等食料品、呉服・洋品店、時計・メガネ、履物など。
石灰山、大角矢、不動滝周辺16軒:小間物、文具、食料品、飲料水、サイダーなど。
(「商店土地家屋借受誓約書」昭和7年より)

(※5)多くの見学者
中外商業新報・記者「我国に於ける模範的鉱山」
岡山県三菱・吉岡鉱山「⽇⽴鉱⼭鉱夫待遇施設視察報告書」
『日立鉱山案内』昭和19年日立鉱山事務所発行より見た日立鉱山福利厚生施策

(※6)ヒコーキ長屋
山の急斜面に立ち並ぶ長屋が、見上げると飛行機が編隊を組んで飛んでいるように見えたことから、「ヒコーキ長屋」と呼ばれるようになった。

(※7)供給所
「はじめの頃日常品の仕入れは大部分東京の一流の商店(デパート等)から、地方商店から仕入れることは一部分であった」と吉岡鉱山の斎木三平が報告書に書いている。
1906年9月 本山供給所創設
1908年2月 大雄院販売所開設
1910年12月 芝内供給所を芝内停留所内に開設
1915年5月 助川供給所開設
1917年7月 石灰山供給所開設
1918年 諏訪台供給所開設
1918年7月 大角矢供給所開設
(『日立鉱山史』より)

(※8)夜間学校
鉱山従業員教育のため、明治42年(1909)日立鉱山夜学校が創立された。鉱山職員や中学校教師たちが先生となって、意欲のある従業員への教育や中堅職員の養成が行われた。優秀なものは夜間学校卒業後、、本社留学制度で大学の専門教育が受けられた。このほかにも学校等に通わなかった者には、読み・書き・算数・修身などの従業員教育の場があった。

(※9)本山中学校
本山中学校は、昭和22年、356名で開校。ピーク時昭和37年は、921名となる。当時は珍しかった鉄筋コンクリートの校舎に改築、体育館等もあった。昭和49年閉校。

(※10)日立一高定時制分校
働きながら進学することを希望する人が多く、昭和30年、定時制の高校、日立一高本山分校が開校された。鉱山からは電力の無償提供があった。

(※11)資源開発学院
昭和40年~49年まで、各地の鉱山から生徒を受け入れ、普通高校教科や鉱山技術、実習など3年間学ぶ全寮制の資源開発学院があった。卒業後、当時本山中の中にあった定時制高校に1年通うと、定時制高校を卒業できた。

(※12)本山劇場
本山劇場の様子は、『日立鉱山山神社物語』による。

(※13)友子
高い技術力を備えた坑夫たち、鉱山労働の技能伝承、相互扶助をした仲間組織。江戸時代頃成立したといわれる。

【主な参考文献】
『日立鉱山史』(嘉屋実/日本鉱業株式会社/1953年)
『日立鉱山山神社物語』(佐藤孝/日立日本鉱業日立製錬所/1981年)
『鉱山と市民』(鉱山の歴史を記録する市民の会/日立市役所/1998年)
「日立鉱山草創期にみる鉱山共同体の形成」(大畑美智子/茨城キリスト教大学紀要第43号/2009年)

※写真は、日鉱記念館とコート日立写真館からご提供いただきました。

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