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別荘地だったまち


常世の国

奈良時代に編纂された『常陸国風土記』(※1)では、日立を含む常陸国は、豊かな実りのある理想郷「常世の国」であると描かれています。日立の人々は、古代から海や山の幸に恵まれた豊かな自然環境の元で暮らしを営んできました。
日立では、りんごもみかんも穫れます(※2)。みかんは照葉樹の果物で、りんごは落葉樹の果物。その両方が穫れるということは、日立は照葉樹林帯の恵みと落葉樹林帯の恵みの両方が受けられる土地ということなのです。
これは、日立が海と山の影響で夏は涼しく冬は温暖なためです。
日立沖では暖流(黒潮)と寒流(親潮)が交わり、豊かな漁場となっています。
また、多賀山地の南端にある風神山によって西から吹いてくる風がさえぎられていることにもよります。風神山の山頂は強風が吹いていることが多いため風神伝説があり、山頂に風神・雷神の碑が置いてあります。

常磐線の開通

明治時代に入り、大量輸送の手段として鉄道が建設され始めました。常磐線は、船で輸送していた常磐炭田から産出される石炭の輸送ルートとして計画され、明治30年(1897)2月に水戸〜平(いわき)間が開通しました。それにより、上野から平までが鉄道でつながりました。日立地方には大甕、下孫(常陸多賀)、助川(日立)、川尻(十王)の4駅が設けられ、小木津駅は遅れて明治42年(1909)に開設されました。助川と上野間には一日に往復3便が走り、助川と水戸間を1時間余り、助川と上野間を6時間余りで結んでいました。
常磐線は、当初の目的である常磐炭田の石炭輸送ばかりではなく、後に日立鉱山や日立製作所、日立セメント関係の人員や物資の輸送に大いに活用されました。

別荘地としての発展

常磐線が開通した明治30年頃、「助川駅の東南の一帯は、断崖状に老松が立ち並び、その下に白砂青松の海浜が連なり、太平洋が広がっており、背面西北方は緑の山々に囲まれているため、気候温暖で風光明媚の地であった」(『街史・助川駅界隈』より)とのこと。
そのため、常磐線ができ、交通の便がよくなると、「忽ち世に知られて、常陸の大磯などとも言われるようになり、東京や水戸、石岡等から別荘を構える人達が続き、又、海水浴旅館等も出来て一躍有名な保養地となった」(『街史・助川駅界隈』より)そうです。
会瀬舟入の坂の上にあった笹沼別荘は、東京日本橋の日本最初の中国料理店(偕楽園)の笹沼源之助氏の別荘でした。明治42年9月から11月までの3ヶ月間、文豪谷崎潤一郎が静養のため滞在し、その直後に発表した小説「刺青」が出世作となりました。
しかし、明治38年(1905)に久原房之助が日立鉱山を創業し、明治42年に大雄院製錬所で大規模な製錬事業を開始してから、煙害の影響で助川海岸の老松が次々と枯れて景勝保養地としての価値が次第に失われ、明治45年(1912)頃には別荘を手放す人が相次ぎました。
その後は、日立鉱山や日立製作所の発展に伴い、海水浴や花街を訪れる人でにぎわいました。
旭町にあった常盤館が日立鉱山の迎賓館の役割を果たすなど、日立には有名な文人墨客が訪れ(※3)、その流れは戦後においても続いていきます。

常盤館は海に望む崖にせり出して建てられていた。

文=宗形 憲樹

(※1)『常陸国風土記』
奈良時代に編纂された日本でもっとも古い地誌。当時の常陸国の風物や地名の由来、言い伝えなどが記されている。

(※2)りんごもみかんも穫れます
日立はりんごの南限であり、みかんの北限。その両方が穫れる土地は、珍しい。

(※3)有名な文人墨客が訪れ
常盤館には、竹久夢二が滞在し、大煙突のスケッチを描いた。
また、日立製作所が昭和12年に開いた大甕陶苑では、竹内彰や加守田章二などが作陶し、数々の芸術家や著名人たちがやってきて交流の拠点となった。その中には、昭和29年から昭和48年までの間にたびたび日立市を訪れた棟方志功もいる。
日立製作所は、アメリカの有名な写真家ユージン・スミスに日立製作所の海外向けPR写真の撮影を依頼し、その成果は、昭和38年、フォト・エッセイ『日本…イメージの一章』として出版された。
日立を代表する美術家・田中信太郎の諏訪のアトリエには、有名な美術家たちがたびたび訪れ、交流の場となっていた。

【主な参考文献】
『常陸国風土記にみる日立』(日立市郷土博物館/2013年)
『図説日立市史』(日立市史編さん委員会/日立市/1989年)
『新郷土日立歴史』(日立市郷土博物館/日立市教育委員会/2007年)
『街史・助川駅界隈』(村田忠次郎・千田正哲/筑波書林/1990年)
『ふるさと日立検定公式テキストブック改訂版』(日立商工会議所/2022年)

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