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【コラム】 信念と挑戦の人 小平浪平

日立製作所の創業者小平浪平は、1874年栃木県で生まれました。近代日本の夜明けと言われる明治の初期です。恩師の助言等から、蒸気から電気へと時代が移ることを予見し、東京帝国大学電気工学科へ進みました。

大学を卒業するとすぐ浪平は秋田の小坂鉱山に就職しました。この時代の鉱山には時代の最先端の技術が導入されており、身につけた専門知識が実地に活かせると考えたためです。ここで久原房之助に出会い、発電所建設に携わりました。

4年後小坂鉱山を辞めて東京電燈(現在の東京電力)の電気技師になり、大プロジェクトに関わることができますが、使う機械は外国産ばかり、そして外国人技師の指導に従うばかりのため、満たされない思いを抱えました。そんな折、久原房之助から「再び君の力を借りたい」との強い誘いを受け、迷いの末に(渋沢元治との大黒屋会談として有名)、久原が開いたばかりの日立鉱山で働くことにしました。

「はじめは外国産の機械の修理でもいい。いつかは自分の手で作り出したい」という思いを持ち続け、修理仕事のかたわらで、モーターの開発に励みました。国をあげて外国技術の導入に力を入れていた時代の流れに逆らい、国産技術の自主開発に情熱を傾け、ついに明治43年(1910年、浪平36歳)、純国産の5馬力誘導電動機(通称5馬力モーター)の製作に成功し、日立製作所が生まれました。小平浪平と彼の志に共感した若いエンジニアたちが興したベンチャー企業です。

日立製作所は「優れた自主技術・製品の開発を通して社会に貢献する」という創業の理念、そして「和・誠・開拓者精神」という「日立精神」を今も掲げています。人への教育や和を大切にする精神は、「日専工(日立工業専修学校)」(創業時設立の徒弟学校が前身)や、「茨城大学工学部」(前身となる多賀工業専門学校設立時に地元負担金を全額寄付)、「パンポン」(発祥時、ラケットは廃木箱のフタを利用。ゴムボールを打ち合うスポーツ)などを通して市民にもなじんでいます。

独自技術と品質にこだわり、市場にこびない、他社と提携しない自前主義で、かつては「野武士の日立」と言われましたが、時代の変化もあり、和の精神で幅ひろくアイディアや技術を共有しようという「共創」を促す方針に変化しているようです。製品内容も変遷を続けています。
♪この~木なんの木、気になる木…、「日立の樹」はどう育っていくのでしょう。

文=高野 たい子

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