戦災を乗り越え工業都市へ
工業都市日立と戦災
日立鉱山や日立製作所の発展により、日立市は人口も増え、工業都市として次第に繁栄していきました。しかし、第一次世界大戦後の世界恐慌や、断続的に起こる好不況の波により、その都度雇用が影響を受け、人口が増減しました。
昭和10年(1935)に満州事変が起こり軍需景気が高まると、鉱工業都市日立は急速に好景気へと転換し、やがて太平洋戦争が始まると、軍需工業都市として、生産に追われるようになりました。
従業員が戦地に行った後の労働力不足を、勤労動員による一般人や学生などが補う状態になり、戦況が厳しくなると学校内に工場が設置されたり、学生たちが工場に動員されることが多くなっていきました。
日本本土への攻撃が始まった昭和20年(1945)になると、軍需工場地帯の日立市は、6月、7月に3回にわたって、1トン爆弾、艦砲射撃、焼夷弾による攻撃や、後に模擬原爆とわかったパンプキン爆弾投下などによって、工場を中心に旧日立・旧多賀地区に甚大な被害をもたらしました。
終戦と復興、新しい日立の発展をめざして
昭和20年(1945)8月15日、第二次世界大戦が終戦を迎えました。多くの工場が焼失・破壊され、市街地も被災した中で、復興への歩みは力強く始まりました。
終戦翌日、日立鉱山では全従業員が共楽館で復興への第一歩を踏み出し、各工場も次々に復興へと動き出していきました。日立製作所も平和産業へと転換し、戦災で破壊された工場も次々に整備されていきました。
工場の復活とともに、従業員の社宅や施設、道路や公共機関などの整備が急速に進められ、産業都市として市街地の整備が急速に進んでいきました。
県道日立停車場線として、日立駅から国道六号まで1050メートル、幅36メートルの道路が建設され、市民によって「平和通り」と名づけられ、その後、さくら(ソメイヨシノ)の植樹がされていきました。
昭和22年(1947)には、焼失していた小学校などが再建され、市営住宅なども整備されていきました。
昭和26年(1951)になると「日立市戦災復興都市計画」より神峰公園の整備や市の施設等の整備が次々に進みます。新設小中学校、高校などが整備されていき、商店街も次第に復興して、新しい日立の発展を目指したまちづくりが、大きく進展していきます。
昭和30年(1955)には、日立市に多賀町・日高村・久慈町・中里村・坂本村・東小沢村が合併編入し、翌年には豊浦町も加わり、昭和31年、新日立市(※1)が誕生しました。
新都市計画により、住宅地やアパートの造成が進み、久慈港(その後日立港)施設も拡大して重要港湾(※2)となっていきます。
文=大畑美智子
日立の戦災の被害
6月10日 1トン爆弾投下→日立製作所海岸工場の9割が被災
7月17日 艦砲射撃→日立製作所山手工場、電線工場、鉱山電錬工場、多賀工場等が目標であったが、市街地への被害が大であった。
7月19日 焼夷弾投下→旧日立市街地の6割以上焼失。多賀、豊浦、久慈地区の焼失多。
三度にわたる攻撃で死者1578人、行方不明者38人(『日立戦災史』より)
「アメリカ軍日立地区攻撃報告書」
1945年7月19日深夜から20日にかけての焼夷弾攻撃について、「日立への爆撃が成功すれば、日本の工業は破壊され、また日本の回復能力も低下するであろう」と、この攻撃について述べた記録が残されており、日立地区が重要な産業都市であったことがわかる。報告書は『日立戦災史』に収載。
(※1)新日立市
この昭和の⼤合併で周辺町村を編⼊した⽇⽴市は、その後平成の⼤合併(2004年)で⼗王町を編⼊し、現在の⽇⽴市となった。
(※2)重要港湾
昭和32年から建設、昭和34年に第1船入港、東関東の物流港の拠点として木材、非鉄金属・鉱石、重電機、自動車等の輸出入を中心に発展、平成20年常陸那珂港・大洗港と統合になり、茨城港日立港区になる。
【主な参考文献】
『図説日立市史』(日立市史編さん委員会/日立市/1989年)
『日立戦災史』(日立市の戦災と生活を記録する市民の会/日立市役所/1982年)
※写真は、日立市郷土博物館からご提供いただきました。
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