脆さを抱えて走ること。(切り絵について)

【序】

制作や表現のなかで考えていることを出し惜しみすることなく、そして「考え抜いたこと」を他人にいとも簡単に知らせてしまうことに臆せず、文章として公開していくことにしました。せっかくなら、僕の言葉として動画などで直接語りたいと思っていたりしました。でも、機材や編集能力などがないのでnoteにしました。今後、不定期で【○○(切り絵について)】というタイトルの記事を連載します。正直、めちゃくちゃ僕のコアだし、お金とってもいいくらいの文章(=情報)な気がしますが、今のところ有料公開にはしないつもりです(たぶん)。

ただ、学生で財力がないくせに、やたらたくさんの本を必要としているので、投げ銭的に本を買ってくれる人がいたらプロフィールにAmazonのリスト貼っています......(お知らせしてもらえれば、ささやかなお返しくらいはさせていただくつもりです。)

【本文】

初めに。僕は今、制作において素材をかなり注視して選び抜いている。(もちろん、以下に述べるような和紙ではなく、機械で量産された洋紙もそれなりに使うことはあるが、頻度は減ってきている。)


現代アートのフィールドでは、素材(マテリアル)の強度が強くあるべきだ、という風潮が少なからずある。様々な次元でだ。誰もが知っている例を挙げればジェフ・クーンズの作品なんかがそうだろう。もっと身近なアートシーンにおいては、「ガラスではなくアクリルのみ可。」という公募展などのお触書も同様である。後者に関しては破損の場合の責任などが考慮に入れられた結果だろうが、たしかに、流通を含めて、長い間保存されることが想定される美術作品は、コレクターにとっても、物体としての不変性(耐久力、耐用年数)は重要になってくる。

そんななか、手漉き和紙をメイン画材に選び、細かく切って制作される僕の作品は、現代アート、いや、美術作品のなかで物理的に最弱の部類だ。水にも弱い、外力にも弱い。ひとたび額縁から出してしまえば、重力やアクリル板が持つ静電気すらも作品を破壊する脅威になりうる。

しかし、脆さを抱えて走ることを僕は決めている。物質的弱さに精神的強さを宿せることを信じて。

水や力に対して最弱だと、さっき僕は言った。物理面だ。しかし、時間性を見てみよう。いわゆる高品質な(化学的なものが入っていない、上質な繊維による)紙は耐用年数は紙に対する感覚以上に長いものだろう。

実例を考えてみよう。高品質な紙は数百年、ときに1000年も持つのだ。土佐日記、今年の夏に滋賀の西明寺で発見された菩薩立像の絵画などが、紙に描かれた古い絵画・博物としてあげられるだろう。そう、高品質な紙というのは、適切に保存されれば、ポケットに入っているUSBメモリーよりも遥かに耐用年数の高いメディア(媒体、記憶媒体、素材)なのである。

次に脆いものと我々とのあいだの少し特異な関係性を見てみたい。切り絵という脆い状態であるからこそ、誰もが丁寧に扱う。そう、脆いものには、人々にそれに対して寄り添うような態度をとらせる力があるのだ。(普通のグラスを洗うときより古伊万里の皿を洗うときのほうが丁寧に扱ったり、ボールを持つときよりも生卵を持つときのほうが、そっと優しく持つように。)考え方を変えれば、脆いものの不思議な力によって僕たちは優しくなるように仕向けられているのかもしれない。さらに、崩壊するかもしれないという緊張感を僕たちに抱かせるのだ。僕はこのことは精神的な強さの一つだと思っている。

最後に、美術史や制度的な観点も考えてみたい。現代アートや美術作品への強さ信仰は、現代アートの歴史を生成してきた欧米由来のもので(※いまだに欧米のアートシーンは特権的だから)、それを盲目的に追い求めること(具体的には、切り絵の素材をプラスチックなどにする)はあまりに無思考的すぎないか。絵画の歴史を振り返ってみてもそうだ。西洋画は木の板や厚くて強度のあるキャンバス地(布)に描かれてきた。一方で日本画は和紙や絹に描かれてきた。(少し専門的な話になるが、美術館では日本画を展示するときは作品保護のために西洋画に比べて暗いところに、光量を下げて展示される。さらに言うと、光に当てたり外気に触れすぎると劣化してしまうため、せいぜい1か月くらいしか連続で展示できない。)日本人の僕の出自である美術の文脈からしても、脆さを否定する理由が見当たらない。

本当に「脆い」ことは無条件にネガティブなことなんだろうか?

そして、脆さを抱えて走ることは、常識的に考えられている強いことへの無思考な賞賛を揺さぶることができるかもしれない。

少なくとも、今現在の僕は、脆さを抱えて走ってゆきたいと思っている。



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