フィルターとしてのスワヒリ語

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タンザニアでの言語調査のためにスワヒリ語をちゃんと学び始めたのが1999年のはずだから,スワヒリ語とはもうなんだか付き合いの長い相棒のような関係である.とてもモノにしたなどとは言えないが,それでも教えているときには「なんちゃって直感」が働く気がする程度には肌になじんだ存在だ.ちなみに,スワヒリ語という言語は優に1億人を超える話者人口を抱えるマンモス言語であるが,これを日常的に話す人々の多くはいわゆる「ネイティブ」ではない.今でこそ都市部の人々などは生まれたときからスワヒリ語という人も少なくないが,ふつう東アフリカの地方に行けば,それぞれの民族集団に対応する言語(民族語)が話されている.つまり,多くの流暢なスワヒリ語話者は,それを第2言語(以降)として話しているということになる.日本では,ある言語を流暢に話すことを「ネイティブなみ」と形容することがあるが,スワヒリ語圏の状況と対比すると,ちょっともやっとする.もやっとつながりでいうと,「世界で一番むずかしい言語は何語ですか?」という質問にも,ちょっともやっとする.社交的な場面で,なんとなく言語の専門家みたいな顔をしなくちゃいけないような状況になると,しばしばその質問が投げかけられることがある.僕のささやかな経験によれば,そのような質問は日本やアメリカの人から聞かれることが多く,ヨーロッパやアフリカの人から聞かれることは,ほとんどない.いい加減な一般化はしたくないが,「ネイティブなみ」も「一番むずかしい言語」も,とてもモノリンガルな環境の中でこそ出てくる発想なのかな,とちょっと思う.もちろん,質問自体に罪はない.ただ,世界はそんなにモノトーンではない.

さて,スワヒリ語である.言語学な人々にとっては,スワヒリ語といえば名詞クラス(noun class)でしょ,なんてビビッと来てしまう向きも少なくないかもしれない.そういう人には無用の説明だが,名詞クラスというのは,その名のとおり名詞を分類したグループのことで,もともとは何らかの意味特徴に基づいて分けられていて,「植物」のクラス,「果物」のクラス,「動物」のクラス,などがある.うめ組,もも組,うさぎ組... さながら幼稚園である.

で,そういういろいろのクラスの中に,「モノ」のクラスというのがある.このクラスに入ってる名詞は,単数だったら ki-,複数だったら vi- という接頭辞が付いている.そのものずばり,「モノ」はki-tu(複数は vi-tu),「コップ」は ki-kombe(複数は vi-kombe)である.(だから正直に白状すると,スワヒリ語の名詞クラスは数が多くてむずかしい,みたいなふりをしているが,名詞ごとに覚えなきゃならない印欧語のジェンダーよりずっと簡単である.名詞の形を見れば分かるのだから)

この「モノ」グループに入る名詞に,kitabu というのがある.「本」という意味で,スワヒリ語がアラビア語からの借用語を大量に受け入れている言語だという経緯を知っている人なら,三子音語根 √ktb「書く」から来てるんだな,ということがビビッと来てしまうかもしれない.そして,ここからは言語学の授業でよく使う話だが,じゃあ「本」の複数形はどうなるかと言えば,答えは vitabu である.そう,きれいな逆形成(back formation)の例である.どういうことかというと,もともと不可分な語根 √ktb に由来する kitabu は,入園時に必ずどこかのクラスに入らないといけないというスワヒリ語幼稚園の鉄の掟のもと,たまたま ki という音を頭に持っているという理由で,「モノ」クラスに入れられてしまったのである.そして,本当は kitabu で一つの名前だったのに,ki-tabu というふうに二つのパーツに分けられてしまい,その複数形は vi-tabu となってしまったのである.

back formation というと,後世の人々の語源意識の変化によってイレギュラーな語形が生じてしまうプロセスとして歴史言語学の文脈で言及されることが多い.しかし,この ki- がからむ創造的な再解釈(reanalysis)は,生きたメカニズムとして,今のスワヒリ語でも遭遇することがある.ki-tabu は ki に起因する再解釈だったが,複数の vi の方が引き金になったものとしては,video からその単数形 ki-deo ができたり,最近では例の virus からその単数形 ki-rusi が出来たりしている(cf. 冒頭の写真).

で,本題はここからである.スワヒリ語人の脳内では,ちょっとしたときにこの ki- のフィルターがかかってしまうというか,このフィルターを使って,未知の音の羅列を,何となく意味ありげな音のつながりに変えちゃおうという補正が,意識するともなくかかってしまうことがある.まだ世の中がパンデミックに覆われる前,イギリスから研究仲間を招へいしていた.中央線で移動するときだったか,ドイツ生まれのバントゥ語学者でスワヒリ語人でもあるその友人は,「'吉祥寺'って覚えやすいねえ」と言う.なんで?というと,「小さい小さいジョージ」みたいだ,と.あ,この ki- は「小さい~」とか「かわいい~」という意味を付け加える,いわゆる指小(diminutive)の働きも持っている.つまり,彼の目,いや耳をとおして '吉祥寺' は,ki-ki(>chi)-George と再解釈されたというわけである.吉祥寺に通い詰めている(←)僕でもそんな風に思ったことはなかったが,それはむしろ未知との encounter でもって彼のスワヒリ語フィルターが発動した結果であって,通い詰めている人には世界はもうそういう風には見えないのである.そういう意味では,僕の中でもっともドラマチックに ki- のフィルターが作動したのは,たしかに予期せぬふとした一瞬だった.

あれはパンデミックとは全く無縁だった頃,当時勤めていた高松の大学で授業を終えて,夕暮れの公園で一息ついていたとき.立ち漕ぎで家路を急ぐ野球部員が視界を横切っていく.彼の背中には,あの野球部員がよく持っている大きなバッグがたすき掛けに揺れている.バッグにはでかでかと「KITAKO」.北高の野球部員なのだろう.しかし僕の脳裏に浮かんだのはそんなことではない.KI-TAKO.tako はスワヒリ語で「臀部」.野球部員の背中にでかでかと「小さいおけつ(単数)」.

まだまだまったく見とおしがつかない脅威に身構えたまま迎える年の瀬.世界のさまざまな地域から友人を迎えて気兼ねなく吉祥寺(じゃなくてもいいが)に繰り出せる日がはやく来ますよう.みなみなさまに素敵な年末が訪れますよう.

謝辞:この記事を読んで,「まあ,言ってることは分かる」とクールなコメントをくれた受験生の娘に謝意を捧げます.世の中の受験生のみなさんにも,楽しいクリスマスが訪れますよう.


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