なぜひとりで山に登るか

登山は、海外放浪の延長として始めた。

海外放浪も決まってひとりでやっていたことなので、山もひとりでやる、というのはごく自然な流れだった。

僕の海外放浪には、インパール作戦の跡を追う、や、飛行機を使わずにポルトガルのサンビセンテ岬へ行く、や、北東インドの首狩り族の村へ訪れる、といった独自のプログラムが常に組み込まれていたので、その実践上、ひとりの方が都合がよかった。

とはいうものの、ゲストハウスで知り合った気の合う人々と一緒に街を歩いたり、食堂を冷やかしたり、時には一緒に越境をすることもスポットではあって、それはそれで結構楽しかった。

だけど、その場合の放浪の中身は、ひとりの場合とは、だいぶ異質なものになってくる。

つまり、風景への期待というか、街中での行動にしても、観照や思索の上からもマイペースがひっこみ、かなり妥協的になり、主体性が大幅に後退していることに気がつく。

その点、ひとりの場合は違う。

納得行くまで対象を眺められ、気がすむまで道草を食い、好きなだけ風景や街と向かい合っていられた。

誰かとがやがや歩いていては、例えばバザールの商人と市民とのやり取りひとつにしても、仲間との会話に夢中で耳には届かないし、視界を横切っていく種種の地理や文化にも気づかずに通り過ぎてしまうことが多い。

ひとりでいると、単独行動が性に合い、気が休まることは確かで、その点、単独行者としての素質は人並み以上に生まれつき持っていたようにも思われる。

そんなこんなで、そもそもひとりで行動することが自然に身についていたようである。

僕が山へ入るようになったのは比較的遅く、社会人3年目になってからだった。

もうしばらく海外を放浪することはできなさそうなので、ならば、、と始めたのが山だった。

よく、ひとりで行ってもつまらないのではないか?と問われるが、それに答えるには、山に何しにいくのかという山行、あるいは放浪の原点、目的意識に遡らなければ、納得のいく答えは導きだせないように思われる。

そして、その場合、僕が山に求めるものの第一は、疎外感、あるいは静けさということができる。

つまり、山という隔絶の中で、自然を通して自分を見つめてみたい、ということになり、それを裏返しにいうと、僕にとっては静かな山ほど孤独感にすぐれた一級品の山といえる。

その意味で、どんなに標高の点で卓越していても、常に人影が蠢いていたり、人声の聞かれる賑やかな山にはそれほど惹かれない。

別の言い方をすると、僕にとって山の魅力は、その隔絶度ということであり、山行の意義は、人造物が介在する余地のない無傷な自然に浸ることだと言えると思う。

放浪にこれを代入しても結果は同じで、日本人はおろか、ツーリストがいない辺境の地域が行きたい場所のトップリストを常に占め、観光地化されていない原始の香りの中を漂うことが旅の魅力と言えると思う。

だから、旅の延長線上に山があり、山はひとりで登るものなのだと決まっている訳なのである。

そんなこんなで、この週末もひとりで山に出かけた。

山は、やっぱり偉大です。

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