芸術による救済
芸術は、それを必要とする人にとって、あるバイブルになり得る。
優れた作品は、僕らが日常生活の中でまず取り上げることのない心象を、しばしば完璧に掌の中に捉えている。
「この世界の中で自分がどれほど孤立していると感じているか」とか、「自分が感じている気持ちは、他のみんなが当たり前に抱く感情とどれほどかけ離れているか」とか「愛することや受け入れられることを切実に求め、そして手に入れ、やっとそれに馴れたところで、ある日何もかもあっけなくどこかに消え去ってしまうのではないかと思うと不安でたまらなくなる」とか、そんなことを気楽に語り合ったりすることはあまりない。
もし誰かがそんな話題を持ち出すことがあったとしても、その発言が説得力を持っていたり、明瞭性を備えていたりすることは稀である。
だけど優れた芸術作品はそうではない。
ある種の論理を展開しながら、心の深いところで作り手の思考や感覚とコミュニケートすることができる。それはあなたの心に直に語りかけてくれる。
そのような芸術作品に巡り合った時はそれをそのまま受け入れた方がいい。
もし少しでも叡智に向かおうとする心があるなら、これはその叡智を探求する手がかりになるものだと感じられるはず。
モスクのひんやりとした空気の中に立ち、そこに存在するはずの神と、神に祈りを捧げる敬虔な教徒のそばで、モザイクに見惚れているその瞬間。
家族の離散を描く東京物語という映画。全く胸が張り裂けるような素晴らしい作品です。
それらがどんなに美しい感じがするものなのか、あるいは体験なのだか、みなさんもきっと共感してくれることでしょう。
そうやって巡り合った作品は、僕たちに新しい次元を見せてくれる。すると、世界はそれまでの世界とは突然異なったものになってしまう。
ビートルズとノルウェイの森、MJQと大運河みたいな好きなアーティストを通じて、名著や名作と対面することがあるかもしれない。
憂鬱な気持ちに浸りたくてkind of blueを聞き込み、ブルーとは何なのか、青とは何なのか、色に感情があることを覚えるかもしれない。
そうした色への興味をきっかけに、キェシロフスキのトリコロール3部作を見ることになるかもしれない。
あるいは、心の平穏を求めて通ったヨガ教室で、オームの倍音に心を奪われることがあるかもしれない。
そのようなことが起こる度に、僕たちの人生は角を一つ曲がることになる。
ある芸術が身体の一部と化した時、それ以前とは世界の様相が一変してしまう。
僕やあなたは今その作品を理解している。もちろん全てを理解しているとは言わない。そのささやかな一部を理解している、ということだ。
しかし、然るべき時が来ればもっと多くを理解できるはず。そういう手応えをもっている。
これらの芸術がたたえている雰囲気とはいったい何なのだろう、と考え、深く見たり聴いたりすることで、自分にもその真髄や本質がだんだん理解できるようになってくる。
今日という日を生きる人類が必要としてるのは、この一連の体験なのではないか。
あるいは、他の何でもいい、彼らにとっての人生の糧ともいうべき、何らかの啓示性を得られる出会いなのではないか。
もしそれら一つで人生が救われるとしたら、世界がどれくらい素晴らしいものになり得るか希望を抱くことができたら、それは何と素晴らしいことなのだろう。
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