オーケストラ・ニッポニカ
こんな不思議なことってあるのでしょうか。
という話を書きたいんですが。
とりあえず自分メモで支離滅裂です。
すみません。
ご存知の方もおられるように、私、英国Boosey Hawkesより個人輸入した“「バルトーク:管弦楽のための協奏曲」(1943)のポケットスコア柄トートバッグ”を愛用しております。この柄を見ていただければわかるように、まぁ、基本、音楽家の方が楽譜を入れるバッグです。
そんなわけで、説明するまでもありませんが、本来、「ツェルニー30番から黄色いバイエルに転落」という、誰に話しても「そんなヤツ、おるわけないやろ」と言われる経歴を持つ人間などはけっして持ってはならないバッグです。が。楽譜が入るくらいなので、ちょっと大きめサイズなので便利なのです。しかも、裏地は楽譜プリントのオーガニックコットンという英国ノーブル仕様。とても気に入っております。黄色いバイエル・バンジー・ピアニストのくせに。
さて。本題です。
2週間ほど前、夫と巣鴨駅前を歩いている時のこと。
突然、「あの、そのバッグの写真を撮らせてもらえませんか?」と、見るからに見るからにノーブルな雰囲気漂う(けれど、どこかほのかに同じオタクオーラを感じるw)女性に声をかけられました。いったい何のことかとびっくりしつつも、このバルトーク・トートに注目されるという初めての経験にうれしくなって、
「あ、はい、ぜひぜひどーぞどーぞ」
「バルトークお好きなんですか!?」
「まー、聴くだけなんですけどね。あ、これ、裏地がスコア柄なんですよぉー」
「わー、本当だー」
「ぜひ裏も撮ってくださいぃぃぃ」
「どこでお買いになったんですか。ブージーで?」
「そうですー。イギリスのオンラインショップでー」
「この写真、バルトーク愛の友達に見せますー」
と、いきなり超めちゃめちゃ盛り上がってしまいました。
あとで夫に「ブージーって、ブランドの名前?」と聴かれました(笑)。
“推しにコトバはいらない”といいますか。巣鴨駅のド真ん中で見ず知らずの人どうしがバルトークのトートバッグの写真撮りながらキャーキャー盛り上がるという、よくよく考えると、ちょっとありえないミラクルです。
だって、道で見知らぬ人から「バルトークお好きなんですか」って聞かれることって、ありますか。ありませんよね。
しかも、バルトークですよ。
キース・リチャーズが、小脇にレコード抱えたミック・ジャガーに「やあ、君もマディ・ウォーターズが好きなのかい?」って声をかけた…という、あの伝説をほうふつさせるではありませんか(させません)。
通訳・翻訳家の丸山京子さんに「巣鴨は日本のダートフォード!」と命名していただきました(命名してくれていないけど、そういうことにします)。
で、ひとしきり盛り上がった後。
その方はオーケストラで演奏されているコントラバス奏者とのことで、31日に紀尾井ホールで演奏会があると伺いました。そして、そこでバルトークの「舞踏組曲」を演奏するので「これも何かのご縁ということで、よかったらご主人と聴きにいらっしゃいませんか?」と誘っていただいたのです。これはもう、誰がどう考えてもバルトーク先生がつないでくれたご縁としか思えない。こんな素敵なお誘い、お断りする理由がない。
さらに、そのオーケストラ名をお聞きしてビックリ。
オーケストラ・ニッポニカ。
故・芥川也寸志氏の志を継いで2002年に設立された、日本人作曲家の作品を積極的に紹介してきたオーケストラ。私なんかが説明するよりも、ご存知ない方はググって欲しいのですが。なかなか実演される機会のない素晴らしい日本の作曲家による素晴らしい交響作品に光を当て、そのスコア、録音を後世に残してゆくことを続けてきた、音楽という形のない文化遺産の守護者ともいえるオーケストラ。
その名前は知っていた。
でも、正直、イメージとしては…アカデミックすぎて、私のようなど素人が聴きに行くのはちょっと敷居が高いオーケストラだと思っていました。
が。結論から言うと、そんなこと全然なかったです。
むしろ、戦後の音楽シーンを作り上げてきた日本人作曲家たちが辿った道を知ることは、私みたいなごくふつうの音楽好きにとっても、とても重要なことだと思いました。とはいえ“勉強する”とか“がんばって聴く”といういう堅苦しいものではなく、西洋の音楽にはない日本ならではのセンチメントや繊細さ、遠い記憶にあるような懐かしさもあって…とにかく、それまで知らなかった曲との出会いはとても楽しいことだと知りました。
とはいえ、オーケストラ・ニッポニカ。
そんな、駅前でたまたま会った見ず知らずのおじさんおばさんが誘っていただけるようなオーケストラではないんですよ。本当にすごいオーケストラなんですよ。なのに、こんな演奏会に誘っていただいて、それもこれもバルトーク・トートのおかげ。
そんなわけで、今から約1週間前の3月31日。
紀尾井ホールでのオーケストラ・ニッポニカ 第44回演奏会《ヨーロッパ辺境の音楽・その先に》に行ってまいりました。
ちゃんと感想も書きたいんですけど。あまりにも情報量が多すぎて、感動が大き過ぎて、どうにもうまくまとまらず。
そのうち、きちんと書きたいです。
バルトークの「舞踏組曲」で幕を開け、そのバルトークに多大な影響を受けた小倉朗(1916-1990)のヴァイオリン協奏曲と「管弦楽のための舞踏組曲」へと続く…。
このヴァイオリン協奏曲がオケ伴奏つきで演奏されるのは、46年ぶりなのだとか。作曲家の果敢さと優美さを映し出すような高木和弘さんのヴァイオリンを聴いていると、こんなにも現代的な調べが46年も演奏されていなかったことが不思議に思えてくる。
温故知新というよりも、今だからこそ感知できる音なのかと思ってしまう新鮮さ。
ここでまた、フローレンス・プライス作品の再評価運動の立役者となったヤニック・ネゼ・セガンが「サブスク時代の今だから、彼女の作品を紹介したい」と言ったことも思い出されたりするのですが…。
最後は間宮芳生「オーケストラのための2つのタブロー’65」。現代音楽がアバンギャルドと接近してゆく時代の、いわゆる超絶に難解な作品。けれども、たとえば弦楽器のピッチを揺らして「ぞわっ」とする感じ瞬間とかに、ふと、最近のソウル・ミュージックにおけるオートチューンでやってるようなこととすごく近いものを感じたりして。それが個人的にはすごく新鮮で、面白い発見だった。
この間宮作品も37年ぶりの演奏とのことで、でも、サブスク時代、ジャンル崩壊時代の“今の耳”で聴くことで新しい発見もたくさんあるような気がした。
ジョン・コルトレーンの『至上の愛』が、当時は“難解”の代名詞で、これ聴いてジャズやめたくなったジャズマンも多かったというけれど。時を経た今ではそれが“ちょうどいい塩梅”のややこしさというか。そういうことはクラシカル、現代音楽でも同じことが言えるんだと思うんですけどね。
R&Bでも、昔は「なんだこれ」的な違和感を感じた手法が今では快感のエッセンスになっていることがあるわけで。とりわけロックとかソウルが好きな人がクラシカルの核心に近づくには、ベートーヴェンやモーツァルトよりも、この日のプログラムのような音楽のほうが親近感を感じたり、フレンドリーな響きに思えたりする可能性もあるのではないかと。
なんて書いてますけど、開演前にふたりでプログラムをいつになく熟読して「へー」とか「なるほど」とかずーっと唸ってたんですけどね(汗)。でも、本当に楽しかったです。
長らく演奏されることのなかったスコアが、オーケストラによって命が吹き込まれて、ふたたび現世に音楽という姿カタチをあらわす。そんな瞬間に立ち会ったような…。
本当に素晴らしい音楽体験でした。
バルトークも、生で聴けてうれしい。美しかったです。
バルトークがちょっとポストロックっぽい匂いがするのって、たぶん、ちょっとコラージュっぽいところがあるからじゃないですかね。ある種DJ的というか。
次回の演奏会は12月。ぜひまた伺いたいです。
こんなご縁を結んでくれたバルトーク先生には感謝しかありません。
これからも謙虚に精進しないと、呪いのかかし人形に襲われる気がしてきた。
そういえば、そのバルトークの名をもらったベラ・フレックも来るし。
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