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追悼 ジョン・ル・カレ

 ジョン・ル・カレが亡くなってしまった。
 享年89。
 生涯現役だった。まるで彼の小説に出てくる、老いてなお信義を貫き戦う愛国者のように。
 昨年発表された最新(最後かどうかはわからない)長編『スパイはいまも謀略の地に(Agent Running in the Field)』の邦訳が今年7月に出たばかりだった(加賀山 卓朗訳/早川書房)。まだ読んでいないけれど。ある種の我慢プレイみたいな、積読を愛でるという歪んだ愛情表現も世の中にはあるのだ。年末に読むつもりで、ずっと楽しみにしていたのだ。

 ル・カレはいちばん好きな作家で、新刊が出たらアマゾンではなく発売日に電車に乗って本屋に買いに行くのをマイ儀式としてきた。そして、買ったらしばらく積んでおく。これも儀式。読み始めたら読み終わってしまうのが淋しいから。いつ読み始めようかと考えているうちに時間が経ってしまうのも、また楽し。

 新刊が出るたびに、あと何冊ル・カレの新作を読むことができるだろうと思うようになったのは『ナイロビの蜂』の頃からだった。そう思うと、そこから自伝1冊を含む新刊の邦訳が8作。映画化された『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』のヒットで再びスマイリーが注目を集め、『スパイたちの遺産』では“スマイリーと仲間たち”がまさかのリユニオンまで果たした。もはや彼のようなややこしい作家は日本で翻訳されること自体が物凄い奇跡なのは想像に難くないし、ファンとしては邦訳が出版され続けること以外に望むことは何もなかったのですが。それにしても、21世紀になって第二の黄金期ともいえる時代を迎えるとは誰が想像していただろう。かっこよすぎる。
 精力的に次々と新作を書き、変わり続ける現実世界に対しても歯に衣着せぬ意見を言い続け、そして、占星術の世界では産業革命以来の新しい時代が始まるとされる22日の“グレート・コンジャンクション”を目前に逝ってしまった。なんだか「これ、ル・カレの何に出てくるキャラクターだっけ?」と錯覚してしまうような、その人生。そうそう頻繁に表舞台に姿をあらわす人ではなかったけれど、読者にとっては伝え聞く消息のひとつひとつが最後まで「ル・カレらしいな」と思わせてくれるものだった。

 『パナマの仕立屋』で早川書房から集英社へと出版社を移籍した時、同社が発行する男性誌はまるでボブ・グリーン(の日本でのイメージ)や北方謙三に続く大物アニキ、キング・オブ・ハードボイルドをお迎えするかのごとき恭しいタッチでル・カレのインタビューを掲載していたのが今でも忘れられない。ル・カレというのは“男が読む国際派ミステリ”みたいなイメージが、少なからずあったのだ。通勤電車で新聞や経済誌を読むように読む知的な男の娯楽小説みたいな? 知らんけど(笑)。なので、そんなマーケティングが多くてあまり女性が読むイメージはなかったし、ミーハーに好きだ好きだ言える系統ではなかった。それだけに『パーフェクト・スパイ』で“自分はこんな小説が書きたかった”“嫉妬した”という解説を書いた高村薫さんのカッコよさには、本編よりも解説を繰り返して読むほどに惚れてしまったのですが。それはまた別の話だ。また別の機会に。

 しかし、時が経ってジョージ・スマイリーをゲイリー・オールドマンが演じるとか、ジョナサン・パインをトム・ヒドルストンが演じるとかいう男前大全集状態のキャスティングがル・カレ映画におけるデフォルトの時代になってみれば、ほれやっぱりル・カレに出てくる男たちというのは真のダンディで真のセクシーガイということで正しかったではないか。と、再認識したのは私だけでしょうか。他にも、映像化ではユアン・マクレガーとか、ピアース・ブロスナンとか、レイフ・ファインズとか、フィリップ・シーモア・ホフマンとか、ですよ。女優さん以上に男性陣がいつも華やかな映像作品。そういえばシーモア・ホフマンには、いつかスマイリーを演じてほしいなと密かに思っていたものだ。

 ちなみに、ル・カレ作品における登場人物の中での、私のモスト推しメンは『ナイト・マネージャー』のジョナサン・パイン。たぶん刊行時からずっと、不動の首位独走中。“私の考える、高村薫作品に出てきそうなイメージのル・カレキャラ”の殿堂入り1位でもある。て、わかりづらくてすみません。もともと『ナイト・マネージャー』は、かなり早い時期にブラピの制作会社が映画化権を獲得したという話があった。なのでブラピのパインをイメージして、ずっと期待しておりました。もちろんBBC版のトムヒでもいいんですけど、ちょっとスタイリッシュすぎて全体的に007に寄り気味のドラマになったのがやや不満であった。や、基本は大満足なのですが。て、贅沢ですみません。

 なかなか出会えないけれど、ル・カレが好きな女性と友達になりたい。
 女性が読むル・カレって素敵だな。と、初めて意識したのは1995年か96年、ハワイ・マウイ島でのことだった。
 あまりに昔のことで記憶は曖昧なのだが、少し遅い夏休みだか冬休みをマウイ島のフォーシーズンズ・ホテルで過ごしたことがあって、その日の午後はたしかNBAのものすごい試合があり、試合が始まるとホテルのプールサイドから男性がほぼ全員消えた。ラジオドラマ『君の名は』が始まると銭湯がガラガラになった現象というのはこういう感じだったのだろうか、と思ったほど、本当に笑ってしまうほど大量の殿方たち(ほとんどアメリカ人だったのかも)がテレビ中継を見るためどこかへ消えてしまった。アメリカ人じゃないけどスポーツ観戦バカの我が夫も、私を残し客室に帰ってしまった。もともとシーズン・オフで子供たちも少なく空いていたのに、さらに静かになって有名大型ホテルとは思えないような静けさに包まれた至福のプールサイドは、派手な水着を気合で着こなした妙齢マダムだらけ。映画のワンシーンのよう。なんだかすごいところに来ちゃったな、と、やや場違いな心細さも覚えつつプールサイドをぐるりと見回したところで「え⁉︎」と気づいた。
 あっちにもル・カレ、こっちにもル・カレ。
 マダムのみなさま、やたらとル・カレを読んでいるのだ。たぶん、10人くらいはいたのだ。しかも、揃いも揃って最新刊の『Our Game(われらのゲーム)』のハードカバー。その後ショッピングモールの本屋に行ってわかったのだが、どうやら米国版が出た頃だったようだった。いや、もう、写真を撮らなかったのが悔やまれる。本当に嘘みたいな、広告写真みたいな光景だったのだ。その時ほどル・ル・ル・カレかっこいいーーー!と思ったことはない。
 翌日から意識して見てみれば、男女に関係なくプールサイドのル・カレ率はやたら高い事実を再確認できた。旦那さんが広げたル・カレを顔の上に乗せて寝ている隣で、奥様は水で濡れてしわくちゃのヴァニティ・フェア誌を退屈そうに読んでいる、という光景。もう、映画だ映画。ここ、なんていうウッディ・アレンですか。またはどこの常盤新平ランドですか。みたいな。あちらにしてみれば、読んでも読んでも終わらない分厚さで、休暇を終えた後の話の種になる話題書で、太陽の下でぼーっとした頭をクロスワードパズル程度に働かせるにもちょうどいい塩梅、暇つぶしにはもってこい。という程度のことだったのかもしれない。が、若き私はすっかりミーハーに憧れてしまった。
 いつか私もあんなふうにプールサイドでマイタイでも啜りながらル・カレを読むおばさまになりたい!と大志を抱いたことは今も忘れない。しかしまぁ、フォーシーズンズのプールサイドではないにせよ、気がつけばとりあえず“ル・カレ読むおばちゃん”という最低ラインはクリアできているわけだな。良しとしよう。継続は力だ。

 その後、ディランの自伝でもル・カレの小説に言及するくだりがあったし、今まさに読んでいる、これを読み終わったら『スパイはいまも〜』を読もうと思っているミステリ小説の中でもヒロインのひとりがル・カレを読む場面が象徴的に使われていたり、どちらかといえばミステリマニアとかオタクというジャンルだと思っていたル・カレの小説ってかっこいい“記号”にも使われるんだなーというのは英米の文化から学んだ。

 最後に、ちょっと余談。虫の知らせというほどではない話なのだけれど。
 お亡くなりになったとされる日に、ちょうど我が家ではル・カレの話をしていた。今年の年末はさっさと大掃除を終わらせて、いよいよ『スパイはいまも謀略の地に』を読むつもりでいるという話から「ル・カレって読み始める時はわくわくするんだけど、読み始めてからはじりじりするよねー。話が転がり始めるまで長いんだよね。下巻になって初めて大きく物事が動き始めたりするから、そこまでの辛抱が試される」と話したら、夫が「東京03のコントみたいだねー」と言った。なるほどー。たしかに東京03のコントは、始まってからずーっと普通の日常のような「コント的には何も起きていない」状態が続くという構成が有名だ。そこがすごい。その「何も起きていない」から突如、話がおかしな方向に転がり始める。その瞬間こそが東京03コントの醍醐味だ。つまり「何も起きていない」というのは「無」ではなく、むしろ話が転がり始める前の「何も起きていない」状態にこそ物語の真骨頂が潜んでいるともいえる。ああ、たしかにそういう意味ではル・カレは東京03みたいだわ。夫、うまいこと言う。
 平和で退屈だと思っていた日常が、実は朽ちてぐらぐらになった土台の上に奇跡的なバランスでどうにか保たれているに過ぎず、ある日、腐敗が進んだ土台が何かのきっかけで一気に倒壊するが如く、世界は些細な出来事ひとつをきっかけに突如暴走を始める…。そんな物語の舞台はル・カレの国際謀略小説に出てくる英国政府機関でもいいし、東京03の単独公演の冒頭に出てくる居酒屋であってもおかしくない。
 お調子者で小心者のセコい仕立て屋が今日もまた口から出まかせのおしゃべりをしているところから世界を巻き込む大諜報戦が始まる『パナマの仕立屋』はル・カレ自身もお気に入りの1作に挙げる、いわば諜報小説版『ファルスタッフ』のような悲喜劇。ある意味、乱暴に言えば一種のコントだもの。
 と、ル・カレ=東京03説でにわかにテンションをあげていた。そして、その日に立ち寄った街の本屋では『スパイはいまも〜』がミステリ・コーナーに平積みされていて、なんだか「今日、ル・カレ師匠に呼ばれてる?」と思っていた。
 それが、日本時間の12月12日のこと。
 なぜだか『スパイはいまも謀略の地に』は何度か開きかけては「今じゃない!」と思っては閉じて、次にこれを読んだら、あれを読んだら…と、いつも以上にだらだらと後回しにしていた。今年はなんとなく暇はいっぱいあるけど身辺が落ち着かない日々が続いていたので、ゆっくりと腰を据えて読書をする時間もめっきり少なくなってしまっていた。なので、これは年末に時間を作ってどっぷり浸って読みたかった。というのが、長期積読に至ったいちばんの理由だ。けれど、今になってみると、なんだかあまりにも妙なタイミングになってしまった。まさか、これが結果的に“ル・カレのいない世界”で読む初めての本になるとは。
 やっぱりさ、新刊はあと何冊読めるんだろうとか、未来の余計な心配なんかしているのは馬鹿らしいね。時間の無駄だ。
 これまでありがとうございました。という感謝の気持ちとともに、その作品がジョン・ル・カレのいない世界でも生き続けることを願って、2021年はまた新たな気持ちでル・カレ作品を読み返してゆくことをひとつの習慣にしてゆこうと思っている。スマイリー3部作は何かってーと修行のように読み返しているので、意外と読み返しそびれてるやつ。ちょっと前に、久しぶりに『シングル&シングル』を読みたいなと思っていたのだ。当時はまだよくわかっていなかったル・カレと父親との関係をいろいろと読んだ今だからこそわかることもあるような、ひょっとしたら読後の印象も変わるような気もする。
R.I.P.



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