ダジャレの言語学的考察

 言語学では「言語の違いは思考に影響を与えない」という考えが主流である。「ドイツ語は厳格な文法があるからドイツ人は真面目」といったことはありえないという。チョムスキーの生成文法という考え方があって、言語の基本は遺伝子に組み込まれたものである。言語の違いはあっても、それ自体が思考に影響を与えるものではない。ある言語で虹を七色ではなく三色だといっているからといって、その話者が色の区別ができないというわけではない。

 が、言語が思考に影響を与える例を一つ思いついた。

 それはダジャレである。

 ダジャレは意味の近似ではなく、音の響きの近似によって成立する。例えば「有識者」と「言(ゆ)う指揮者」の間に意味の関連はない。

 これはもちろん注釈をつければ翻訳可能だろう。が、あくまでもそれは「ふ~ん」という程度の理解でしかなく、ダジャレの持つ「くだらなさ(おもしろさ)」の判断は他言語の話者には理解できない。

 英語における韻にも同じことがいえる。英詩が韻を踏んでいるというのは注釈などで理解できるが、その美しさすばらしさはわれわれには理解不可能だ。ダメな韻の踏み方と美しい韻の踏み方の区別もできない。

 さらに、わたしのように常にダジャレを考えている人間は、ダジャレからさらにダジャレとどんどん連想を広げていく。意味の関連ではなく、音の近似による連想というのは、言語が思考に与える影響といえるのではないか。

 なお、筆者は言語学者ではなく、これはただの思いつきの駄文である、多分(笑)。

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