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「プリズン・サークル」

 ことばの映画。ことばが吐瀉物のように吐き出される。そのひとつひとつはいつまでもそこに横たわり、これほどまでに痛い。
「島根あさひ社会復帰促進センター」の更正教育システムであるTC(セラピューティック・コミュニティ)を取材したドキュメタリー映画「プリズン・サークル」を、山形フォーラムで観た。ずいぶん前に予告編をイメージフォーラムで観ていて、気にしてはいながらもそのままに見落とした映画だった。

 名前こそ「社会復帰促進センター」だが、いわゆる刑務所である。さまざまな犯罪を犯したひとたち、そのなかでも初犯かそれに近いひとたちが収監されている。
 そこで懲罰主義の日本ではめずらしく官民協力体制での更正教育が行なわれている。カメラは長く執拗な交渉を経て、そのなかには入り、TCとはなんなのか、どのようなことがそこで行なわれているのか、4人の受刑者にフォーカスを置きながら、その全容をつぶさに記録する。
 オレオレ詐欺、オヤジ狩り、強盗傷害、傷害致死。それぞれに罪を犯して、ここにやってきた。
 更正プログラムの中心は、一方的な「授業」ではない。彼らを向き合わせ、たがいにことばを発し合う。ときには空の椅子をまえに、もうひとりの自分と対話する。さらにロールプレイング。被害者と加害者にわかれ、それぞれの役割を演じる、演劇的なワークショップも行なわれる。
 支援者とよばれる民間の指導者たちは、あくまで彼らからことばを引き出す、その手助けをするだけだ。車座になったなかで発言の機会を与え、緊張でこわばった口の端からでていることばの糸をうまく引っぱってあげるのだ。
 すると、これまでずっと溜め込んできた、かたまりとなったことばたちが、ドロドロと吐き出されてくる。あるものは、その量とかたちに自分自身おどろき、そしておののき、ことばが途絶えて、涙しかでてこなくなる。
 いったい自分の身体からなにが出てくるのか、発話する自分すらわからないほどに、記憶を失い、感情をなくした、そんな生活をずっと続けてきたのである。

 それぞれの事件の経緯とともに、彼らのこども時代のことが語られる。そのひとつひとつが、耳を覆いたくなるほどにつらくかなしい。
 ある受刑者は二ヶ月間だけ母親と暮らした経験がはずなのに、なぜかその記憶が抜け落ちている。ただ浴槽にあったシャンプーの香りだけが残っているだけだ。
 またいじめを受けて突き落とされたことのあるものは、いまでもうしろにひとがいるだけで怖くなるという。
 親から虐待を受ける。あずけられた施設でいじめられる。強くなることでいじめから逃げようとするうちに暴力の魅力にとりつかれる。うそをつく。小さいときから窃盗をくりかえす。
 おそらく人前で、自分の過去、これまで経験したことを話す機会などあまりなかったのだろう。そこにでてくることばには、いやらしい飾りはひとつもない。ただゴロゴロとしたかたまり、あるいは吐瀉物といった「ものそのもの」であるようなことばがあるだけだ。
 みんなのまえで、もうひとりの自分と語りあった受刑者は、その感想をきかれて、両手に感じるしびれを訴えた。
「どうして手がしびれているのかな?」
かれは答える。
「たぶん、これが新しい経験だからだと思います。新しい経験をするとこうなりますから。」

 永山則夫を持ち出すまでもなく、かれらははじめから犯罪者ではない。にわかには信じがたいような、幼いころにおとなたちから受けた過酷な裂傷を、そのあともずっと抱え込みながら生きてきた。厳罰はその裂傷を癒すものではない。むしろその傷をひろげることにしかならない。
 かれらは身体のなかにたくさんことばを溜めている。だれかがそれを掘り出し、聴き、応えてあげなければならない。
 彼らの犯罪の責任の一端は、わたしたちとわたしたちの社会にある。だとするなら、もういちど彼らをわたしたちの社会に迎えいれるための制度の拡大と充実化が必要となるだろう。
 この映画「プリズン・サークル」は、そのための石を、確実に投げ込んだ。


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