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頭にふれる

陽がいっぱい入る屋内プールでたくさん泳いだ。車がゆるやかなカーブを曲がると、道は少し狭くなった。向こうから来るとぎりぎりだ。ぼくは速度を落とす。
フロントガラスの向こうでは、空から降ってきた鳥の羽が一枚、ひらひらと、夕方の気持ちいい風に舞っていた。羽はそのまま開けていた助手席の窓から、すうっと忍び込んで、ぼくの左腕を軽くなでて、隣に着地した。まるで「フォレスト・ガンプ」みたいだと思った。そしてスピーカーからはトニーニョ・オルタの「スピリットランド」が流れていた。

青山のクラブに、トニーニョ・オルタを聴きにいったとき、最後の曲を終えて、満場の拍手のなかを歩くトニーニョはすこし興奮した笑い顔だった。その顔にむかって手をだすと、彼の大きくてやわらかい手に包まれた。そしてもう片方の手をぼくの頭の上に乗せた。握手してもらったことよりも頭をなでられたことが、なぜだかとても嬉しかった。

そのまえになでられたのは、善光寺だった。
ちょうどご開帳の折だったので、もうかれこれ五、六年は経つかと思う。大勢のにぎわいのなか、ひととおりまわって、さあ帰ろうかというとき、むこうから夕の業に向かう僧の一団に、運良くでくわした。
みなあわてて道の端に正座をして手を合わせる。善光寺の長はそのひとりひとりの頭に手をおいてくださる。

そのまえになでられたのが二千一年の正月。バンコックにある「暁の寺院」であった。
どこも店がしまっていて、することもなく、漫画ばかり読んでいる息子をつれて、お寺めぐりをすることにした。
まずは、泊まっているカオサン通りから一番近いお寺で手を合わせる。やはりお正月ということで、いつになくにぎわっている。
ひとの合間をするりと抜けて水上バスの停留所にむかう。なんどか息子と乗っているが、こどもの分は乗るたびに、ただだったり、大人料金をとられたり、その半分だったりした。

一大観光地「暁の寺院」もまた、いつもと様子がちがっていた。
たくさんの僧侶たちが参拝者をむかえ、いくつもある部屋へひとびとを招き入れては祝福を施してくれる。ぼくは坊主頭で、インドネシア更紗を巻いていただけのなりだったからか、僧侶からよく声をかけられた。
「日本から来たお坊さんだろう。さあさ、こちらへ。」
その部屋にはすでに何人かの参拝者が静かに手を合わせていて、奥には僧がなにやら説いていた。
それが終わり、そのもとに進んで施しを受ける。やさしい手が顔や頭に触れる。目を開けると僧の笑顔があった。こどもにはお守りのようなものまでくれた。

門をでたところでコーラを飲んだ。
「暁の寺院のお坊さんにお祝いされたのだから、次の千年はきっといいことがあるよ。」
「だって千年も生きないよ。」
もらったお守りを見せてもらった。小さな四角に座禅を組む仏さまらしき姿がぼおっと浮き出していた。
「そのお守りは大事にしたほうがいい。ぎゅっとにぎってなくすなよ。」
「うん。」

そしてそれは返事だけだった。
ありがたいお守りは東京にたどり着くことなく、どこかに置き忘れられたか、落としたか。いつかまたもらいにいこうと思うのだが、なかなか腰があがらないでいる。

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