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「骨風」ノート

(1)
 高田馬場から西早稲田へと向かう道、明治通りを過ぎて路地にはいったところで「それ」は起きていた。いや、いまも起きている。「それ」は、寺山修司を思い起こしつつあえてことばを選ぶなら、「事件」と呼ぶのが自分にはいちばん身体に馴染むようだ。
 かつて、「あの時代」の演劇、とりわけアングラといわれた演劇は、そのひとつひとつが運動であり、思想であり、エネルギーであり、実験であり、ことばであり、歌であり、肉体であった。それらが渾然とぶつかり合い、どつき合いながら一体化と分裂を繰り返すことで、舞台は、そして劇場は多くの観客や世間を巻き込んだ「事件」となって、都市のあらゆる場所でその火の手をあげていた。
 やがて社会の見せかけだけの裕福さと成熟さが、ヌエのごとく張り巡らされ、演劇という「事件」は、それ以外の多くの運動とともに、敗北し、撤退し、見捨てられ、その諦めのうちに「事件」の現場であった劇場や場所を当局の管理下に明け渡してしまうことになった。

 あれからどれくらいが経ったのだろうか。ぼくは終わっていこうとするその移行期に、天井桟敷や状況劇場、早稲田小劇場、転形劇場、黒テント、つかこうへい事務所、安部公房スタジオといった集団が起こした数々の「事件」を目撃した。
 そのなかでももっとも現場に足を運んだのが、山崎哲の率いる「転位21」だった。卓越した脚本とすぐれた役者たち、そして鋭利な演出で、文字通り世間を騒がせた実際の事件を題材にとりながら、事件を演劇という別の「事件」へと変換し昇華するさまを、単なる観客としてではなく、目撃者として板のしたから眺めあげた。
 ぼくは演劇が好きというより、きっとそこで起こる「事件」が好きだったのだろうと思う。あの時代、演劇がほかの運動とともにくだっていくさなか、新しいものとして演劇界を賑わせていた「夢の遊民社」をはじめとするいくつかの新進気鋭の劇団を観たとき、なにかいいようのない喪失感と疎外感に襲われたのだと思う。それはこのさき「事件」はもはや街のなかでも劇場においても起きることはないのだろうという、どこか漠然とした予感をはらんでいた。
 そしていつの間にか劇場に行かなくなって、遠巻きにはなれたところから、時折、ちりぢりに投げ出された「事件」の破片や証拠品を眺めるばかりとなり、かつての首謀者たちが地方都市に請われてオーソリティーになっていくころには、それすらもしなくなっていった。
 ぼく自身が勝手に、演劇はもはや「事件」にはならないだろうと思い込んだだけで、ひょっとすると「事件」は変わらず、ずっと起きていたのかもしれないが、それはわからない。

 そしてずいぶんと時が経った昨夜のこと。西早稲田の小さな劇場で観た「骨風」と名付けられた舞台はまごうことなき「事件」であった。いや「大事件」だったと断言できる。かつての「あの時代」のただなかにいた者たちが、西早稲田へと向かう道をはいった、細い路地に集まってただならぬことを起こしている。
 この席を確保したとき、ひょっとすると手垢にまみれたノスタルジアに失望してしまうのではないかという危惧にほんの一瞬襲われたことは白状しておかなければならない。しかし鬼才山崎哲がそのようなことを許しはしないだろうという確信も同時に持っていたし、信じていた。
 そして昨夜、ぼくはふたたび、まんまと「大事件」の目撃者に仕立てあげられてしまった。これはその目撃ノートにほかならない。そこで観たことをなにかにとどめておかないことにはならないと、そう強く思っている。

(2)
 「骨風」のバッソ・オスティナートが「死」であることは疑いようがない。「新転位・21」の近作「漱石の道草」、「東京物語」でも「死」は大きなテーマとなって、舞台上にぐにゃりと横たわっていた。昨年秋に亡くなった安保由夫の追悼公演の側面もあるこの舞台に「死」はどうしても切り離せない。

 冒頭、中島夏の舞踊で幕が上がる。いやちがう。ほんとうは幕などどこにもないのだ。ここには舞台と観客席、俳優と観客を隔てる仰々しい緞帳などない。劇はどこまでも日常の地続きにあって、それはいつの間にかはじまり、いつの間にか消えていく。
 中島夏は灰とともに踊る。細かな砂。それは焼かれて形を残すことのなかった骨の灰なのかもしれない。それを両の手に握り、ときに首に身体にすり込んでいく。もしそれが骨であるなら、ひとは自らの骨をその身体に纏うことはできない。
 それはだれかほかのひとの骨だ。だれの骨だろうか。開場の際に流れていた歌い手、安保由夫の骨かもしれない。しかし、それはおそらく特定のだれかではなく、「死んだらみんな、仏さん」という、おかのみかの台詞がいみじくもしめす通り、それはだれのでもなく、まただれのものでもある骨にちがいない。

クマさんこと、篠原勝之をめぐる「死」のパレード。世話になったラブミー牧場の主であり、稀代の作家深沢七郎の死、異端の映画監督若松孝二の死、戦争でひとが変わってしまった父親の死、二十年以上の長きをともに過ごした愛猫GARAの死、ずいぶんと手を焼いた弟の死、そして最愛の母の死もまた、うっすらと舞台の後方にただよっている。
 若松孝二とともに北海道を旅する列車のなか、血を吐いたばかりの若松とともに弁当を食べるくだりがある。クマさんと若松はゆっくりと弁当を取り、箸を袋からだして、紙の覆いから横に引き出し、おひつのような上蓋をあけて、なかみを食む。それはそのまま、のちに弟の骨を口にし、食べる行為を見事に裏返す。
 深沢七郎は「みちのくの人形たち」のなかで、人形の「裏」をあらわにしてみせた。この舞台の旗振り役をかってでた四谷シモンは人形作家である。伏線は幾重にも重なって、「死」の迷宮はどこまでもつづく。

 「死」はとりあえずの「さようなら」。山崎哲はこの数年、ずっとその「さようなら」を、だれにともなく言っているのではないだろうか。
 アフタートークで大久保鷹が村松友視を横にしてこういった。「ぼくはもう長くはないけれど」と。いや、ちがう。山崎さん、大久保さん、梅軒さん、クマさん、みなさんの骨はもっともっと多くのひと、この国の文化を、演劇を引き継いで行く人たちに食まれなければならない。そのためにもこの舞台「骨風」を秘かなフェアウェルパーティにしてはならないと、心から思っている。

(3)
 役者の骨のことをよく考える。このひとは骨が太そうだとか、強そうだなんて思いながら、映画や芝居を観ていることが多い。見た目ががっちりしているというよりも、その内部に張り巡らされた骨のひとつひとつが気になる。
 つい先日も、映画「弁護人」で、主演のソン・ガンホの骨は硬そうだなと思いながら観ていた。それほどたくさん観ているわけではないが、韓国の役者たちは骨が太いなという印象を持っている。思い込みなのかもしれないが、日本の役者さんには感じない、骨太という強い個性を感じてしまうのだ。
 特に舞台において、役者はあまり等身大ではいけないと思っている。実際よりも大きく見えたり、ときに小さくなったりする、そのつかみきれない役者の身体の伸縮と対峙することこそが、演劇を体験する醍醐味ではないだろうか。そしてその伸縮の自在さには、役者の身体の内側にある骨こそが、とても大切なのだと思っている。

 「骨風」は死をめぐる演劇だ。いやがおうにも骨に目がいくというもの。実際、劇のなかで、父親の骨が形のまま大きく残って、骨壷にはいらないからと、木槌で叩き、その破片が粉々に飛び散って床に落ちたというくだりがある。
 三時間の長丁場、ずっと出ずっぱりだった佐野史郎は、ほんとうにすごかった。これほどに骨を、そしてその太さを意識させてくれる役者だとは思ってもみなかった。大きくなったり、小さくなったり、自由自在に変幻する佐野史郎を観ながら、なんとはなしにソン・ガンホのことが浮かんで、日本の役者さんじゃないみたいだと思った。
 そして、この巨木のような骨に、全身でぶつかっていった井浦新もまた、内側の筐体の強さを十分に見せつけていたのにも驚いた。佐野史郎や井浦新ばかりじゃない。「骨風」の舞台に立っている役者たちは、みな一様に骨が太く、強く、硬い。
 篠原勝之はもちろんデカくて骨もしっかりしているのが一目でわかる。しかし彼ほどのガタイがなくとも、老いて痩せて、そがれていこうとしている役者たちにこそ、その骨の強さが際立っていたように思う。
 往年なんかじゃなく、今日のこの日に、四谷シモン、吉澤健、十貫寺梅軒、大久保鷹の、その存在を支えている骨の歴史と力強さと幽玄を感じることができたのが、この舞台をこのうえなく多様で、奥行きのある、魅力的なものにしていた。

 演出家山崎哲によって、小手先を外され、全否定され、身体を裏返しに剥かれた骨ばかりの役者の姿を、観客ははっきりと目撃した。この全身全霊が「事件」でなくて、いったいなんだというのだろうか。
 本日「骨風」千秋楽。最後の百人が目撃する。

(4)
 「骨風」が終わってしまった。はじまればそれはいつか終わる。高田馬場から西早稲田に向かう道、ひっそりした路地で「大事件」が起こっていたことに、おそらく多くのひとは、そのかけらすらも知らないのだろう。それはいまアレッポでどんなことが起きているかを知らないのと、どこか似ているのかもしれない。

 ぼくらはほとんどのことに関心がない。「骨風」のなかでも、「人類が続いていくということが大切だ」というオレ=佐野史郎に、井浦新が「そんなことにも関心がない」と言う場面がある。一瞬、虚を突かれたような間があったのちに、ふたりの合点がいって笑うシーンがある。
 ここがこの芝居のキモのひとつであることは疑いようがない。小さなハコ=劇場でなにが起ころうが、アレッポでなにが起ころうが、高江でなにが起ころうが、ぼくらは関心を持つだけの骨の太さと密度を、すでに失っている。

 山崎哲は、そんな時代の骨粗鬆症にいよいよ愛想をつかそうとしているのかもしれない。もはや演劇が「なにか」であることはないと、強く告発している。この命がけのことばと身体の全身全霊を、もし受け止められないのならば、ぼくらの「終わり」は、そう遠いことではない。
 これほどの全身全霊の、骨ばかりの身体の目撃者を、山崎哲はなぜ千人に限定したのか。そこに彼の諦念を、深い諦念を感じるからこそ切ないのだ。   
 ぼくも命がけでこれを書いている。その一端も感じないのであれば、ぼくもまた自然(じねん)に処するしかないのか。かつての誤った戦争の局面に際して、小林秀雄がもっともらしく、偉そうに、そうほざいたように。
 山崎さん、そうなのだろうか。ぼくはいつもほんとうに困ったときに、山崎さんにメールした。ほんとうに迷ったときにだけ、メールした。

 「骨風」を、あの奇跡的ともいえるあの舞台を、全身全霊の舞台を、もういちど観たいと心の奥底から思う。でもそれはかなわない。その「瞬間」は反復できないのだ。そこが演劇のおもしろいところ。しかしそこで「起こったこと」は、確実に伝わり、引き継がれていくものだと信じている。
 四谷シモンの幽玄、吉澤健の虚ろうはかなさ、十貫寺梅軒のやけっぱちな気骨、大久保鷹のとらえようのない奔放は、しっかりと佐野史郎に、そして井浦新の骨に、さらにあの舞台に関わったすべてのひとたち、それを目撃したすべてのひとたちに染み込んだのは間違いない。
 そしてその内なる骨のうずきが、大きな共鳴となって、ふたたび「骨風」という、とんでもない大事件を起こした面々を表舞台に引きずり回すなら、山崎哲を「静かな生活」なんぞに安住させないなら、それはそれで、いくらかの光が差し込んでくるにちがいない。

 どこまでも続く暗闇を這うようなこの世界に、ひとすじかの光を射した「骨風」という舞台は、警鐘をともなった「大事件」であったと、そう記してこの目撃ノートをひとまず終えようと思う。

(了)

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