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2017年5月24日

 読書をしなくなってもうずいぶん経つ。いつのころから本を手にしなくなったのだろう。それすらはるか遠くで、おぼろげだ。大量の書籍に圧倒され、気後れするようになって、そのうちに、開いた本の言葉が語りかけてこなくなった。そう言ってしまえば、自分の不勉強の言い訳になってしまうのだろう。けれども実際にそう感じたのだから、仕方ない。
 だからぼく自身、ものすごくボキャブラリーが乏しく貧しい。こうして駄文を書くときも、その少ない語彙のなかから、なるべく嘘がない言葉だけを選んで書きたいと思うが、そのひどさに我ながらいやになって、やめてしまうことも多い。
 そんななか、数少ない言葉の先生がいる。大道寺将司さんはそのひとりだ。大道寺さんの発する言葉には、言い表せない衝撃を受けた。言葉が襲ってくる。そんな体験はついぞ覚えがない。むさぼるように繰り返し読む。折にふれ繰っては、そのつど新しい発見と感慨に驚く。
 大道寺さんにはたくさんの言葉を教えてもらった。
「ででむし」「洗い飯」「八洲」「木下闇」「まなうら」「まくらがり」「東風」「ひきあけ」「海市」「百千鳥」
  もっともっと、いくらでもある。いつの日かこうした言葉を自分のものとして使えるようになりたいと、貧しさをうらめしく思いながら願う。

 この恐ろしい時代。それは言葉が言葉として成り立たない時代。そのただなかで、大道寺将司さんは去っていった。

 もうずいぶんとまえ、今世紀がはじまる前後、大道寺さんの句にこうある。ほんとうは横書きでは失礼だと思うが、なんとか許してもらいたい。

いつはりの言の葉軽し枯尾花

世はなべてこともなきごと祭り笛

蟻地獄後戻りする戦前に

八洲の闇の深さやいなびかり

 大道寺将司の句集「棺一基」の刊行は、作家辺見庸さんの尽力無くしてはかなわなかった。その跋文に辺見さんはこう記している。
「娑婆は、大道寺将司の逮捕当時よりもっと、永山則夫が生きてそこにあったころよりはさらにもっと、思惟する力を衰頽させ、病的なまでに記憶力を失いつつある。逆にいえば、東拘の住人にこそ、とりわけて、死刑囚たちにこそ、滾る思弁があり、煮え立つ記憶があるのだ。」
 共謀罪が現実のものとなりつつあるいま、それを許しているぼくたちは辺見さんや大道寺さんが描いてみせた、ある異形の軟体動物になってしまっているのかもしれない。
「獄外の私たちは、たくさんのことを忘れている。日々、記憶をかなぐり捨てている。昨日見た虹を、通常は、今日には忘れている。(中略)ミミズ化した私たちは、記憶をも、日々、大量に排泄しているといっていいかもしれない。記憶の廃棄と商品の蕩尽を不可欠の動力とする消費資本主義のゴミ捨て場。私たちはそこでくねくねと這い回る、一本一本の、記憶なき(したがって怒りなき)管状生物である。」

 2017年5月24日。大道寺将司さんが木下闇に還った日に、あらためてその言葉たちを反芻する。
 

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