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頓狂

 ぼく自身、一体なにがおもしろいのかと問うてみる。執拗に問いかけた果たてにあらわれてきたものとは、どこまでも頓狂であろうとする意思であった。
 ぼくが何を食べて、何を観て、何を考えたかなんて、いくらかでも好意的に思ってくれているいくらかのひと以外には、なんの興味もおもしろみもない。そんなことはただひたすらに凡庸で無意味なだけだ。

 レーモン・ルーセルはアフリカに行ったこともなければ、いくらの興味もないにもかかわらず、「アフリカの印象」という、とんでもなくおもしろく、そして頓狂な小説を書いた。ジョージ・オーウェルもまた、行ったこともない未来について語る「1984」を書いた。古今亭志ん朝は江戸の長屋の出来事を、ついいましがた見てきたように語ってみせる。
 ぼくを取り巻く現状や、ぼくにまつわることなんて、ほんとうに取るに足らない。そんなことよりも、どこまで頓狂なことを、まるでだれよりも知っているかのように語る、いや、騙ることができるかが大事なのだと思う。

「一分間に一万語」を発話するように、また「ことばにできないことをことばで」語るようにと、俳優たちに命じたのは寺山修二だった。
「いますぐ、思い浮かばない単語を三つ挙げよ」
「いますぐ、思い出せない歌を三つ歌ってみよ」
「いますぐ、想像できない土地を三つ描写せよ」
寺山修二はどこまでも頓狂に、見たこともないものを見ようとし、知らないことばを話そうとし、聴いたことのない音を奏でようとし、身に覚えのない話を語ろうとした。

 ちっぽけな日常のことなんてどうでもいい。それよりもぼく自身がどこまで頓狂になれるのか。それだけがなにかをほんの少し動かす力になる。
少なくともクリエーティブを標榜するのであるならば、なおさらなことである。それが周りをぐるっと見回し、気をめぐらすことで小さくまとまっているようでは、このさきはさらに真っ暗であろう。

棺一基 四顧茫々と 霞みけり

 大道寺将司がそう詠んだ地平に分け入ろうと、これでもかともがく。凡庸なぼくはどこまでも頓狂であることに憧れ、酔い、求め、こがれる。
 もう手垢だらけのことばを無意味に反芻するのはやめないといけない。どこまでも頓狂に、語り得ないことを語ろうとする努力こそが、いまというときに大切なのだと思う。
 
 

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