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「主戦場」

 どうしようか、観ようか観るまいかとぐじぐじと考えていた映画「主戦場」。昨日やっと腰をあげてイメージフォーラムに行ってきた。地下の階段を降りる段になってなお、気は重かった。
 すこしばかりまわりの評判をきいていた。とてもまともな議論を期待できない、ぼくのなかではサイコに近いひとたちの、身勝手な主張を展開されると想像するだけで怖気たつが、なによりそれが映画のなか、つまりスクリーンにその得意げな顔が映されるということに、果たして自分は耐えられるのだろうかと思っていた。
そうしたそれらカルトな「向こう側」にいるひとたちの、稚拙な言い分を、いちいち反証することに、やはり映画として意味はあるのだろうかとも感じていた。
 さらにいえば、いわゆる「リベラルな」観客たちが、彼らを「かわいそうなもの」として笑い、現政権がここまでのさばっている哀しい現実に、いっときの溜飲をさげているとしたら、そんな姿もまたみっともないと感じていた。
 イメージフォーラムの階段を降りて、トイレの横にポスターがあった。なかば怖いものを観る覚悟をもって、それを写真におさめ、劇場にはいった。
そして「主戦場」は静かにはじまり、ぼくの杞憂は思いもよらないカタチで裏切られた。

 映画には、なかば思った通りの気持ちの悪さはあったものの、それ以上に、監督であるデサキ氏のしっかりとした筆致と構成が全編を覆い尽くし、あたかも一編のたいへんすぐれた論文を観る(読む)ようであったのだ。
 内容ではなく、映画としてどうなのだろうという、ぼくが抱えていた疑問符は、予想すらしなかった映像論文というカタチになってあらわれることで、まったくあらたな感情と感慨を生んでいた。
 そういえば取材を受けた何人かが、だまされたといって「主戦場」の上映禁止を訴えていたが、そのなかの主張に、デサキ氏は、大学院の卒業制作といってきたのにちがっていたというものがあったことを思い出した。

 デサキ氏は、問題を取り上げ、疑問に思ったことを論考していく。ていねいに検証をかさね、関係者にインタビューをとり、取材をするのである。そしてそのなかでわかったこと、感じたこと、考えたことを提示し、ひとつの方向性のなか、結論を見いだしていく。
 「主戦場」は、形式として論文なのである。映像論文とでもいうのだろうか。ぼくはこれが映画の、なかんずくドキュメンタリー映画のカタチとして、とても好感をもって観ることができた。そしてなによりこの「従軍慰安婦問題」という、なんとも手のつけにくいテーマを扱うには、これ以上の方法論はなかったのではないかとさえ思っている。
 やはりインタビュイーの何人かは、正視するのがつらかった。彼ら彼女らの目の奥までがしっかりと映っている。映画はだませない。いろんなものを映してしまう。あらためて映画の力に畏怖の念すら感じる。
こうした映像の力もまた、デサキ氏の検証にとって欠かせないリアリティを与えていた。

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