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儲からないシステムのつづき

 長々と書いておきながら、読み返してみると、自分でもなにを言いたいのかが判然としないことがよくある。わかっているつもりのことを、勢いに任せて書くあまり、そのうちどこかに逸れてしまう。その結果、論旨の腰の部分がどうにもよわい。なまじっか論たろうなどとへんな色気をだすから、失敗をするのだ。こうなったら、思いつくままとりとめなくなってみよう。散々書き散らかして、あとでまとまるようならまとまるのだろう。
 
 かつて政権交代があった。民主党が与党になったばかりのときのことだ。党のホームページかなにかで、新政権に期待や要望することみたいな投稿フォームがあった。四百字の文字制限があるものだったが、延々五回くらいにわけて、長々と書いた。
 書いたのは、文化政策についてだった。自民党は経済を中心に据えたムラ政治に長けている分、文化のほうはどうしてもおろそかになりがちだった。
そこで、少なくともその当時は、若くて気概に溢れ、知的でグローバルな視野を持っているように映った民主党に、文化政策の充実に期待したのだった。投稿フォームを無視し、勝手にナンバリングをしてまで書いたのは、文化政策を、新政権の基幹政策のひとつとしてほしいというものだった。
  それにはちょっとしたいきさつもあった。政権交代が現実味を帯びていた時期に、想田和弘監督のドキュメンタリー映画「演劇1」「演劇2」を観た。映画の冒頭に民主党の若手議員たちが、青年団の芝居を観劇し、なにやら文化の重要性みたいなことを平田オリザさんらと話すシーンが印象に残っていたのだ。
  駄文は、民主党の会報誌に掲載され、たしか枝野さんだと記憶しているが、積極的に文化政策に取り組む所存であるとの、ていねいな回答もいただいた。
 残念ながら、大きな転換となるような文化政策は実現しなかった。そればかりか、三年ほどでまた自民党政権になり、くまモンとアニメを中心とした「クールジャパン」政策が推し進められ、恥ずかしい事態を招いたことは記憶に新しい。
 
 エンゼルスの大谷選手に代表されるような、ものすごい個人は世界のあちこちで活躍している。果たして日本の文化や芸術はどれくらいの強度と情熱をもって、輸出されているだろうか。文学、絵画、音楽、演劇、映画など、どの分野をとっても、海の向こうから沸き立つ声は聞こえてこない。
  先日もアマゾンプライムのかたが言っていたが、日本発の映像コンテンツの八割が、アニメなのだそうだ。その得意分野であるアニメもいまやコンピュータグラフィック化され、劇場はディズニーの作品が人気を呼んでいる。もはや以前のようなアニメ大国ぶりは鳴りを潜めているように感じるのはぼくだけだろうか。とはいえ、それでも八割を占めているのだから、やはり勢いはあるのだろう。問題なのは、アニメ以外の分野ではなかろうか。
 
 おもしろくて、大胆な発想で作られる作品。普遍的な価値と拮抗する作品。国境を越え、ひとびとの琴線に深く触れる作品。そういった作品を世界に向けて送り出しているかといえば、はなはだ心もとないように思う。そういった作品群が国内で作られていないわけではない。足りないのは、積極的に文化にコミットし、支え、それをひろく伝えてまわるといった、国の文化に対する態度と政策なのだと思う。
  さきの国政選挙でも、与野党を問わず、声高に叫ぶのはお金のことばかりだった。芸術、文化のことはこれっぽちもなかった。コロナだから、それどころではないのかもしれないが、もう少し大局的な視点と提案かあってもよかったように感じる。
 
 芸術や文化を目指し努力したとしても、それはどうにも儲からない。儲かっているひとはほんのひと握りでしかない。ほとんどのひとが、儲かるどころか、生活することすら厳しくなり、制作をつづけられなくなる。歌手をやめ、俳優をやめ、監督をやめ、作家、詩人は筆を折り、画家はイーゼルをたたむ。
  才能なきものは去れということか。でももう少し社会や政治に包容力があれば、大きく羽ばたいた才能もあったかもしれない。プロ野球の世界で活躍している選手の多くはドラフトで何巡目かのひとが多い。パリーグ本塁打王の杉本選手は、十巡目だという。
 野球は、この国の文化として、時間をかけてしっかりと根付いている。サッカーもそうなりつつあり、ラグビーもそのあとにつづいている。スポーツばかりでなく、映画や文学や演劇、そして広く芸術全般も、一緒に育んでいくことはかなわないのだろうか。
  文化国家を目指す、そんな政治の力を期待してやまない。なぜなら芸術、文化、スポーツこそが、国の足腰を強くする要にほかならないからだ。

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