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民意と選挙

 「安田純平さんの生還を願い、戦争取材について考えるシンポジウム」(4月19日文京シビック小ホール)での議論のなかで、印象に残ったのが「民意」ということばだった。
 それまで、安田さんを拘束している武装勢力と、どのような交渉の手段があるか、または実際の進捗状況はどうなっているのか、はたまた生還への一番の道筋はなんだろうかという、緊迫した議論がなされ、さらに、戦争取材そのものへのありかたを問う流れになっていた。
 そのときふと壇上のどなたか、おそらく川上泰徳さんではなかったかと記憶しているが、「民意の後押し」ということを言った。世論という名の「民意」が、たとえば「安田純平を救え!」ということで盛り上がって、それが大きな運動となって政治家や官僚を動かしていくということが、ひとりのジャーナリストを救ううえで、すごく大切だと訴えた。
 その「民意」が見えてこないのが、どうにもはがゆいようだった。それはそのまま、いま世界でなにが起きているのかを知りたいと願う「民意」の存在すら、おぼろげにしてしまっているのではないかと感じた。
 このところ「民意」というものについて考えることが多かったので、ああここでもかと、はっとした。現代はその「民意」がなかなか形成されにくい、あるいは表立ってでてこない、そんな状況にあるのではないだろうか。かと思うと、さきの待機児童の問題のように、「日本死ね」とともにワッとでてきて大きな流れになったりするものもある。
 どこかつかみどころがない。いままで経験してきた「民意」の形成の有りようとは異なってきているのは確かだろう。ジャーナリズムはそんなとらえどころのなさに、おおいに戸惑っているように感じる。パネラーとして登壇したジャーナリストたちから出てくる「民意」という言葉に、どこかすがる気持ちが見えたような気がした。ぼくもまた「民意」というものに、すがりたいと思っている。少なくとももう少しその姿を見たいと願っている。

 さきごろ北海道5区で補欠選挙があり、日本中の注目を集めての激戦が繰り広げられ、自民党の和田氏が辛勝した。
 この結果、これをもって「民意」なのかと思う。一部で言われたように組織票争いの体を成していなかったか。個人の意見の集積としての「民意」の反映というよりは、創価学会や共産党、組合や自衛隊といった団体の利益が優先された、従来通りの、個人を排斥した選挙になっていやしなかっただろうか。それならむしろ40%以上のひとが「選挙に行かない」というのが、よっぽど「民意」だといえなくないか。
 いや、ぼくはそう思わない。「行かない」は「民意」たり得ない。意は表明されて、はじめて意である。少なくとも政治の世界ではそうだろう。となると、あの中央政界を巻き込んでの大騒ぎの補欠選挙の「民意」は、喧騒のうちに埋没したまま、ついにその姿を見せることがなかったように感じてしまうのだ。
 それは言い過ぎかもしれない。「民意」の光はたしかにあった。でももっとたくさんのひとが自分の意思で選挙に参加していたらどうなっていただろうと思いをめぐらせるのである。

 たとえばこの国には死刑制度というものがある。世論調査によると85%のひとが死刑制度の存続を肯定しているという。これはたいへんな数字で、もうほとんどのひとが死刑を願っているわけで、その大きな「民意」の後押しがあるからこそ、法務大臣はバンバン判子を押すことができる。
 しかしなにかの拍子で形勢が逆転し、「民意」が死刑の廃止をつよく訴え、それが大きな運動となって世論が形成されると、法務大臣は躊躇せざるを得なくなる。そういうものだ。「民意」とはかくも強い威力を政治の世界で持つことができるのである。だからこそ、為政者は「民意」を恐れ、自分たちにとって都合のいい、たとえば独裁のような政権運営に走りたがるのだろう。
 原発の再稼働はどうだろう。それを判断する政治家は、再稼働こそが「民意」だと信じている。おそらくそれは真実だろう。再稼働を望むひとたちは、ぼくのまわりにはあまり見かけないけど、それは閉ざされた小さな世界のことで、実際にはたくさんいるのだろうと思う。
 再稼働賛成のひとも反対のひとも、同じ意見の同志たちでかたまらず、おおいに議論して、ぶつかり合って「民意」を作りだしていけばいいのにと、いつも思う。
 「民意」の形成には、かような議論がプロセスとして欠かすことはできない。新聞社のひとたちは、ひとびとが新聞をもはや読んでくれないことを知り、どこに議論の場を持っていったらいいか戸惑っているのではないか。
 新聞だけでなくマスメディアといわれたものが、従来の「場」としての機能を失いつつあるなか、流れていく情報やニュース、トピックをとどめ、取り上げて議論する場所と手段を模索しているようにも映る。現場で情報をつかんでくるジャーナリスト自身が、それがどのように届き、議論され、「民意」としてカタチになっていくのか、そのひとつひとつに懐疑的になっていやしないだろうか。

 ちょうど一年位前に、後藤さん湯川さんがISに殺されたことを受けて、やはり戦争取材とジャーナリズムのありかたを議論するシンポジウムが開かれた。その壇上には安田純平さんの姿があった。そしてパネラーのなかで、ひときわ怒りをあらわにしていた。後藤さんたちをめぐる政府の対応に、戦争取材の現状について、ジャーナリストのあつかいに対して、そしてなかんずく「民意」に対して、安田さんはひどく怒っていたのだと思う。
 シリアなんかに行くやつが悪いんだ。殺されたって「自己責任」だ。というのが「民意」であるなら、それをもっと声高に叫んでほしい。130人いる確定死刑囚はまとめて殺っちまえというのが「民意」であるなら、あなたの本心であるなら、もっと声をあげて政府に嘆願してほしい。原発もさっさと稼働させ、武器でもなんでもいいから売って儲けようというのが「民意」なら、ハチ公まえで演説してほしい。その意見を表にだしてもらいたいと思う。
 ぼくは知りたいのだと思う。そういうひとたちがどんな顔をして、どんな服を着ているのか。とにかく隠れてないででてくれば、議論もできるし、わかりあえるところも見つけることができるかもしれない。いろんな意見があって、ぶつかって、「民意」は育っていくのだから。
 それがいかなる集約のしかたを見せるのであれ、「民意」が見えてこないのは、民主主義において未熟であるということになりはしないだろうか。よく見て、考えて、意見を言う。おそれることなく議論の場にいき、生身のコミュニケーションすることでしかないのでと思う。くりかえすようだけど、行かないことは決して「民意」たりえない。
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