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人見知り

二千年という節目を間近にひかえた十二月のある日、ぼくはなにやら「ミレニアム」なるとんでもないお祭り騒ぎから逃げ出すような格好で、ギターと当時八才だった長男を連れて、あてもなくタイにいったのだった。
バンコックの喧噪をはやばやとあとにして、ぼくらはカンボジアとの国境付近にあるチャーン島をめざした。夜遅く偶然たどり着いたところは、ごはんのおいしい、とても居心地のよいコテージだった。
そのままそこに居ついてしまい、クリスマスまでたっぷり二週間、安くて家庭的な「ブルーラグーン」に滞在した。

名前の通りすぐ目の前の海に流れ込む川の上に、そのコテージは建っていた。
部屋の壁は折りたたみ式になっていて、朝おきると大きく開け放つ。
すると部屋は、まるでせりだしの舞台のようになって、すぐ前は気持ちのいい川が流れ、足をたらしたその先にカニや川魚がみえる。

午前中はよく海にでかけた。
そしてそんなある日、ぼくは一匹の魚と知り合った。
いつものように遠浅の海に分け入り、胸くらいの深さのところで、浮かんだりもぐったりしていると、すぐ近くに黄色がかったうすっぺらな、十センチにもみたない小さな魚がいることに気がついた。目をあわせると、人間をまるで恐れるようでもなくこちらに近付いてくる。手を差し出すと、その上に乗ったりする。
「一緒に泳ごう。」
というと、後をついてくる。
ぼくのまわりをくるくるまわったり、いなくなったと思って振り返ると、すぐ目の前にいたりした。

こんな経験は、はじめてだった。いまここで起こっていることを知らせたくて、浜辺の木にのぼって遊んでいる息子に声をかけた。ただ遠浅の海で、距離は遠く、ぼくの叫び声はその内容まではむこうまで届かないようだった。
「さかなとあそんでるんだよ。こっちにおいでよ。」
ぼくはできる限りの大きな声で手招きした。けれども彼は左手を耳にかざして首を振っている。

ほんとうは見てほしかったのだけれど、話だけでもと思った。ひょっとして信じてくれるかもしれない。ぼくはその魚にお別れを言って、浜辺にむかって泳ぎだした。
膝下くらいのところで落ちあって、いま経験したことを夢中になって話した。
彼はふーんという顔で聞いていたが、ぼくの一生懸命とはうらはらにその感想は「おなかがすいた。」だった。
ふと足下をみると、さっきの魚が泳いでいた。ぼくはもう一度さよならをして岸にあがった。

何日かあとに、同じコテージに泊まっていたフランス人らとお金をだしあい、船を借りて、沖にある無人島までいった。
珊瑚はすでに死んでいるが、熱帯の魚がたくさん見られるというので、素潜りをすると、先日と同じ種類のあの人懐っこい魚が、今度はおびただしい数で待ち受けていた。
魚たちはすぐさま、ぼくたちのまわりを取り囲んで歓迎してくれた。

息子は、ガウンをまとったように周りを泳ぐ魚たちに、一体どうしていいのかとばかりに目を丸くしていた。ぼくは「どうだい。」と合図をおくった。
すると「あの話はほんとうだったんだね。」という顔をしてみせた。その顔は、友好的な魚たちより、よっぽど人見知りだった。

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