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愛は愛とて

 待ち望んでいた大道寺将司の新句集が出版された。「残の月」と書いて「のこんのつき」と読む。残月、有明の月を「のこんの」と刺すことで、風景がはっと一変する。
 前作「棺一基」にも度肝を抜かれたが、大道寺さんのことばには、肚のなかにぐっと手を突っ込まれる独特の感性がある。静謐な、曇りのなき一行詩の立ち居にやはり震えずにはいられない。
 こうしてみるとつくづくと横書きは散文的だなと思う。

咳くとふぐり重たくなりにけり

と写してみたところで、どうしても横書きでは伝わりにくい気がする。
 大道寺さん句は、縦にすっと降りてくる。咳き(しわぶき)からふぐりへと直下する感覚を、よりよく体感するには縦書きがいいようだ。俳句のことはよく知らないけれど、大道寺さんの句、一行詩は、やはり縦にイメージされるものが多いように思う。

空つかむごとからびたる油蝉

棺一基四顧茫々と霞みけり

その時のきて母還る木下闇

 これらは前作「棺一基」からの、大好きな句であるが、この死んだ油蝉も、荒野に置かれた棺桶も、横になっていないのだ。油蝉は空高く手を伸ばし、棺桶は墓石のように聳えて映るのは、ぼくだけではないだろう。母の死、還っていく木下闇(こしたやみ)の無限を思いながら、視覚には大木が天に向かって伸びている。
 かように茫漠とした風景のなかに縦に伸びるひとすじの切っ先が、大道寺さんの詩情を豊かにしているのだと思う。

 縦のイメージ。ぼくは自分のうちに起こる穿ったとり憑きに首を振ろうとするが、やはりどうしても絞首台を思わずにいられない。大道寺さん自身のなかの「縦」は、三十八年の長きに渡って少しずつ滲んでいるのではないかと思う。
 死刑囚にもクリスマスがやってくる。刑が確定してからキリスト教徒になったひとも多いと聞く。信心のないぼくも「罪」について考えるいい時期だ。

 ある句を探して「棺一基」をめくっていると、ふと目にとまったのが、残月を詠んだこの句だった。

狼や残んの月を駆けゐたり

 幾度となく読み返すこの句集「棺一基」だが、どうやらさっと過ぎてしまっていたようで、印象に残っていなかった。最新句集が「残の月」とあって、こうしてあらためて発見すると、またぐっと風景が広がっていく。

 大道寺将司は、かつてテロリストだった。多くのひとを殺し、また傷つけたのである。1974年に起きた「三菱重工爆破事件」の首謀者として、裁判を受け、確定死刑囚となった。
 
狼や残んの月を駆けゐたり
 
 大道寺さんたちがいた組織は、東アジア反日武装戦線のなかで「狼」と呼ばれた。「狼」は三菱重工の事件以前に、大逆事件を頓挫している。
 いわゆる「虹作戦」。荒川橋にかかる東北本線の爆破をもって昭和天皇の暗殺を試みたのである。その綿密な計画のさなか、さらに爆弾の回収など、彼らはいくどとなく荒川のうえにかかる「残んの月」を眺めたことだろう。いや、そんな余裕はこれっぽちもなかったかもしれない。「狼」は「残んの月」を見ることなく、「残んの月」に照らされていただけなのだろう。
 大道寺さんがあえて「狼」ということばを使うとき、それは必然的に自らの選んだ生きかたと向き合うことになる。

 今年の夏、大学の授業の一環で山形県の舟形町へ行った。宿舎に割りあてられた町の施設のロビーで、指名手配犯の顔写真を集めたポスターのなかに、「大道寺あや子」の古びた顔写真を見つけて、しばし立ち止まった。
 大道寺あや子は、大道寺さんの妻で、一連の事件の共謀者でありながら、いまだに逃亡をつづけている。このふたりの若き日のひとときを詠んだ夏の句がある。
 
二世契るをんな掻き込む洗ひ飯
 
 来世もまた一緒になろうと誓った女の洗い飯。この決死の愛と覚悟を、どうして笑うことができるだろうか。おそらくことばを弄ぶだけの愛にもっとも足りない「肉感」がここにあるように思う。
 
世はなべてこともなきごと祭笛
 
もはや終末を知らせる最終列車は荒川橋を通り過ぎようとしている。ぼくたち自身の決死の愛は一体どこにあるというのだろうか。
 


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