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豊玉伽藍

環状七号線豊玉陸橋のほど近く、赤とオレンジがまざったような外観の四階建てくらいの古びた雑居ビルは、どことなく異様な波動を周囲に放ちながらそびえていました。
そこは麿赤児主宰の暗黒舞踏派「大駱駝艦」のビルです。もちろん自社ビルとかいうわけではなく、実際にはどうだったのかわかりませんが、当時はなんというか「大駱駝艦」に占拠された建物という感じでした。

大学にいっていた頃は、演劇とともに舞踏にもよく足を運んだものでした。
「アングラ」だとか「暗黒舞踏」とかって、なんかお仕着せみたいな安っぽいイメージが流通していて具合が悪いのですが、たしかぼくの記憶では「暗黒舞踏」はあるグループ名みたいなもので、その派閥を名乗っていたのが「大駱駝艦」だったと思っています。

裸同然の肉体に白塗りであれば「暗黒舞踏」だといわれがちですが、踊るひとによって実にさまざまで、優雅で詩的なものもあれば、華麗な流麗さをもったもの、躍動や喜びにみちたもの、ほんとうにひとくちでは表せない豊かな表現形態が、そこにありました。
そのなかでも、たしかに「大駱駝艦」はおどろおどろしく、暗黒であったと思います。

そんな暗黒を観にいくのにときどきむかったのが、アトリエ公演の会場である「豊玉伽濫」でした。

建物の脇から入ってその一階部分が、稽古場をかねた舞台になっていたと、ぼんやりとではありますが、覚えています。
その日は金太郎をモチーフにした演目で、いつもながらの超満員でした。あの当時、椅子席にすわって芝居をみるということはごくまれで、いわゆる桟敷席にぎゅうぎゅうにつめこまれての観劇というかたちが多かったものです。

整理券を片手にはいってくる観客を、うまく誘導し、なるべくたくさんの人をむだなく着席させるのが、若い劇団員たちの腕の見せ所でもありました。
観客サイドもその作法には慣れたもので、整然と寿司詰めになっていくさまは快感すらともなうものでした。そうして詰め込まれたひとりあたりの占有分は、小さくなった体育座り、あるいは屈葬状態というくらいの、かなり窮屈な状態です。

おおよそ埋まった桟敷席、それでもまだまだとばかり、舞台を背にした劇団員がみなに声をかけます。
「わたしの『せーの!』かけ声で、舞台下手方向におしり一個分、ずらしてください。それではいきますよ。」
なぜか客まで「せーの!」と声をだして、みんなが同時に五センチずれる。
そうやって全体の観劇体制が整い、自分の位置が決まってはじめて、外で待っている間にもらったチラシをおいて、トイレに用を足しにいくことができます。

豊玉伽藍は、劇場にあるようなロビーやいくつも便器がならぶ特別なトイレがあるわけではなく、舞台の上手づたい、観客席のすぐわきに扉があって、そこをあけるとすぐさま日本式の便器がひとつ、ぽんと待ちかまえているというシンプルなものでした。
それゆえ混んだりもするのですが、その日はうまいこと誰も待ち人はなく、すぐさまドアは開きました。
しかし開いたのはいいのですが、目に飛び込んできたのは、便器ではなく、白くて大きな女性のおしりだったのです。
鍵をかけわすれた先客はおしりのむこうから声だけで、か細く「すいません」と言い、同時にぼくも「すいません!」とドアを閉めたのでした。

薄暗い劇場だったせいか、そのおしりの白さと大きさはとても印象的な残像をとなりました。
そのまま席に、といってもチラシですが、戻って、舞踏を観ました。
たいへんおもしろい演目でした。
それは展開される夢のような踊りの合間に、フラッシュバックのようにはさまれる白くて丸くて大きなおしりによるところも大きかったのではと思っています。

なぜかその後に「豊玉伽藍」にいった記憶はなく、いつの間にか舞踏も観なくなっていました。
去年の暮れに、たまたま大駱駝艦の人と話をしていて、「豊玉伽藍」はとっくになくなっていたことを知りました。
でも「豊玉伽濫」は、あの当時の独特の空気のまま、ぼくのなかに、ほのかなエロスとともに残っているのです。

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