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お金をあげるから

 作家辺見庸に「青い花」という、なんとも形容しがたい作品がある。小説なのか、思索的随想なのか、はたまた詩篇か。いずれ流通のジャンルわけなどにおさまらない瞠目すべき一冊であることはたしかだ。
 おとこがひとり、ただただ歩く。線路にそってただただ歩く。歩きながらあたりを見回し、考え、ひとりごちる。
 このおとこはどうして歩いているのだろうと、読みながら思っていた。なにかを求めて、どこかを探しているのだろうか。ときどき「ポラノン」という麻薬を指すような名前がでてはくる。しかし歩く理由は、もっと虚ろで漠然としている。
無目的に歩く。歩き続ける。

 先日笹塚駅からさほど遠くないバス停で、ホームレスの女性が殴り殺された。ぼくはそのとき、はたと思い出した。ホームレスのひとは日がな歩き続けなければならないという話を。
 だれしも一度は大きな紙袋を提げ、ぼろぼろのリュックを背負ったホームレスのひとが、あてどもなく歩いているさまを見たことがあるだろう。どこかに腰をおろそうものなら、うとまれ、排除され、ひどいときには攻撃されてしまう。横になりたくてベンチを探しても、そこには手すりにみかけた仕切りがあって身体をのばすことはできない。
 かれら、かのじょらは、止まること、とどまることを許されていないのだ。そのことを経験的に知っているにちがいない。だから歩くのは防御のためでもある。食べ物を探しているわけではない。ただひたすらに不条理な暴力におびえ、あてどなく彷徨うことを「課されて」いるのだ。あたかも永劫の罪人のように。
 
 それでも夜になれば、闇にまぎれ、溶け込み、身を埋める。一日の苦役を終え、やっと腰かけ、横になる。
そのとき、少し離れたところから声がする。
「お金をあげるから、そこをどいてもらえないか。」
どんな語気でそのことばは言われたのだろうか。やさしくだろうか、それとも威圧的だったのだろうか。
 そして、かのじょはそのことばの意味をはっきりつかんだのだろうか。近寄ってくるひとはろくなことはしないと、そう思っていたかもしれない。数ヶ月にわたるホームレス生活で、いままで経験したことのないさまざまなことに遭遇していたかもしれない。
 声をかけたおとこは、かのじょの態度に腹をたてたという。そこにどんなコミュニケーションがとられたのだろうか。どく、どかないで押し問答でもあったか。いずれにせよ、腹をたてたおとこは翌日、「痛い思いをさせる」ために袋に石を入れ、それで殴りつけた。
 かつて「ホームレス狩り」という行為があった。いや、いまもあるのかもしれない。そしてそれを容認する空気すら、うっすらと存在する。
 見たくないもの、不愉快なもの、きたないものを、暴力をもって排除することで目のまえからいなくする。自分の半径数メートルをすっきりさせれば、快適な生活が待っている。

 多摩川の河川敷には、いわゆるホームレスと呼ばれるひとたちが暮らすエリアがあった。すぐ近くの工場跡地にリバーサイドを売りにした大型マンションが建つ。入居してきた若い夫婦が、私立の小学校に通わせる女の子を連れて、土手を越えて川を見にやってくる。そしてきびすを返して、警察か役所に連絡をいれる。
「河川敷にいるあの違法占拠者どもをどかせ!娘になにかあったら、おまえら責任とれるのか!」

 「青い花」のおとこは、ただ歩く。歩きながらゆがんでしまった景色に目をやり、音にならないことばを反芻する。
「お金をあげるから、そこをどいてもらえないか。」
そういわれて、かのじょは、なんてこたえたのだろう。
 

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