見出し画像

編集の周辺

 ずっと息をひそめ、ただただ見つめている。そんなカメラ側の緊張感までひしひしと伝わってきます。「あなたの微笑みはどこに隠れたの?」(01年)でもそうでした。こちらの気配が少しでも恣意的なかたちで漂ってしまったなら、すかさず編集中のダニエル・ユイレから手厳しい叱責を受けたことでしょう。

 ステインベックというフィルムの編集機をご存知でしょうか。ムビオラが主流だったころには、もうたいへん画期的な機械でありました。ひとりが腰掛けるには大きすぎるテーブルのようなその台の上には、一巻のポジフィルムとシネテープがかかります。真ん中にあるレバーを操作すると目の前に置かれたモニターに画が映り、脇のスピーカーから音がでてきます。

 もう三十年も前になりますか。当時めずらしかったステインベックを市川昆監督の事務所から借りて、どこだかに運んだことがありました。それはとても重くて大きくて、何人かでとりかかり、外階段を使って下ろしました。半日がかりの仕事でした。いままでいろいろなものを運びましたが、これはきっととてもたいへんだったのでしょう、運びだした時の様子がはっきりと記憶に残っています。ところがそれをトラックにいれたところまでで、果たしてそれがどこにいったかがわからないということは、そこで私たち人足は解散だったようです。

 ふたりでひとりの映画作家ストローブ=ユイレに衝撃を受けたのは、学生の頃に観た「アメリカ」(84年)でした。この驚きははじめてビートルズの「ヘルプ!」を聴いたときに受けたものに限りなく近かったのです。
 冒頭の主人公が発する「忘れた!」という台詞。それと同時に手から落ちる鞄。それは鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」の、やはりはじめのあたり、地方へと向かう列車のなかで、藤田敏八演ずる青地の手から落ちるウィスキーのポケット瓶のホルダーと呼応します。この奇跡的なシンクロニシティーを映画史のなかで引き起こしたのは、フランツ・カフカと内田百閒という希有な才能をもったふたりの作家でした。そしてカフカをあつかったストローブ=ユイレ、そして百閒とむきあった鈴木清順。彼らがものした二本の映画が教えてくれるのは「事はかくのごとく不意にはじまり、終わる」ということだと私は思っています。括弧はべつにだれかのことばの引用ではありません。「不意にはじまり、終わる」というのは、編集点、あるいは編集そのもののことだといってもいいでしょう。

 ストローブ=ユイレや清順だけでなく、たとえばブレッソンや小津安二郎、ゴダールやカサベデス、タルコフスキーやアンゲロプロスなどなど、多くのすぐれた映画作家の映画を観ると、かならずや編集という行為について考えさせられます。
 「あなたの微笑みはどこに隠れたの?」は、まさに編集点、あるいは編集についての映画であります。ふたりでひとりの映画作家は、編集点、あるいは編集をめぐって、はてしなく分裂し、融合します。その一コマを加えるのか、はたまた削るのかでふたりは、ときに激しくときに穏やかに議論し、納得するまでステインベックは何度も再生と逆回しを繰り返します。薄暗いフィルムの編集室にダニエル・ユイレの背中が、モニターをはさむシルエットとなって映ります。右手のドアは開けられたままで、明るい廊下の光が差し込んでいます。その光と影のあいだをストローブがいったりきたりします。
 そしてその一部始終を部屋の奥で、じっと息をひそめて見つめているのは、ペドロ・コスタであります。

 ジャンヌ・バリバールをとらえた新作「何も変えてはならない」(09)で、はっきりしたのは、ペドロ・コスタ監督のじっと息をひそめて見つめるという態度にほかなりません。そしてその個性的な態度が浮き彫りにするのが、編集とはいかなるものかということだと思います。
 そのカットはどのようにはじまり終わるのか、モンタージュはうまくいくだろうか、「つなぎ間違い」は起きないだろうかという、終わることのない問いかけでありましょう。優れた作家たちは天を仰ぎます。するとどこからか先達のことばが聞こえてくるのです。

「何も変えてはならない。すべてが変わるために」

 編集をめぐる言説が、ストローブ=ユイレ、ゴダールを経由してペドロ・コスタに引き継がれたことは、とても喜ばしいことだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?