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「さよならテレビ」

「ちょっとすごいものをみた。」
 ポレポレの階段をのぼりながら、漠然とそう思った。この場合の「ちょっと」は、「少し」の意味ではないだろう。むしろ立ち止まることをうながす「ちょっと」にちがいない。
「ちょっと待てよ、いまものすごいものをみたのではないか。」
と、自身に問いかける、そんな「ちょっと」だ。
 「ホームレス理事長」「ヤクザと憲法」の圡方宏史監督のことだ。単なる、テレビの裏側、報道の現在、マスコミの迷える姿なんてありえない。ぼくたちに突きつけてくるのは、そんな生易しいものではないと、事前に覚悟を決めてスクリーンに向かったはずであった。
 そしてそれは期待通りの、映画力に満ちた構成と映像と音であったのだ。報道局で働く三人にフォーカスしながらも、丁寧な取材で、たんなる楽屋ネタで終わらない力作であった。いや正確にいうと力作であったと思われた。
 しかし、ある瞬間、それは予期せぬかたちで裏切られる。まさか映画の終盤に、こんな「屋台崩し」が待っていようとは思いもよらなかった。
 取材対象になった三人のうちのひとり、ベテランの契約社員が、最後に言わせてもらうと、圡方監督とカメラに詰問する。
「一体なんのためにこれを撮っているか。ドキュメンタリーって、ほんとうに現実なのか。都合良く切り取って、それを現実としていやしないか。現実って、もっとちがうはずだ。」
口ごもる圡方。そこから「屋台崩し」がはじまる。
 
「屋台崩し」は、物語を宙に吊りあげ、なかば強引ともいえる力で、カタルシスへと向かわせる演劇的な手法である。大きな音をたてて崩れ落ちる舞台装置を切り裂き、大型重機に乗って新宿の夜空に消えていく状況劇場の李麗仙に快哉を叫んだのは、いつのことだったろう。それは「物語を宙に吊る」という言い回しが、ロラン•バルト的な流行語として学生たちに使われていた時代のことである。
 
「さよならテレビ」の屋台崩しは、以前と同じ手法をとりながら、しかしまったくちがった位相を持っていた。
 ささやくような音声が、舞台装置を壊していく。映像は使われなかったカット尻を見せることで、物語の素地をあらわにする。
 崩れた舞台の向こう。そこにあるのはカタルシスなどではなく、もっと不気味で異様なものが鎮座していた。さながらそれは、とここまで書いて、自分の印象に躊躇する。しかし敢えて言うなら、ぼくは、この屋台崩しを「公開処刑」のようだと、そう感じたのである。
 顔に布をかぶらされ、太いロープを首に巻きつけられたひとの足もとの板が突然ふたつに割れる。大きな音がして、階下にいるぼくたちの目の前にいいようのないかたまりが跳ねて、そして静かに揺れている。
 東海テレビの報道局にいた三人は、あたかもそのボタンを押すことを命じられた刑務官のようだ。
躊躇し、煩悶し、拒み、嘆き、従う。
 三つのボタンのうち、電気が通っているのはひとつだけだ。三人はそれを同時に押す。だれが足もとの板をひらいたのか、それを知ることはない。
 かたまりの揺れがだんだん小さくなっていく。胸に書かれた文字が見える。
「怪しいお米、セシウムさん」

 ベテランの契約社員の言う通りだと思う。ドキュメンタリーは現実そのものではない。現実とつくられたものの中間にあるといえば、彼は納得してくれるだろうか。しかしそもそも「現実」とはなんだと、圡方監督は問うているのではないか。
 処刑が終わって、電気が消える。そこにうっすらと浮かんでくるのは、この映画にでてくるひとびとの、追いつめられた、おどおどとした、泳ぐ目である。
 もし「テレビのいま」「報道の姿」があるとするなら、それはこのなにも映さない空虚な目玉が代弁するなにかにほかならない。このまごうことなき「現実」は、しっかりと映画に焼き付けられた。

 

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