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「希望のかなた」

「これでも喰っときなよ。」
 そういって投げ出されたビーフジャーキー。そんな映像のかたまりと連続こそが、アキ・カウリスマキの映画の魅力だ。
 足元に落ちたそのジャーキーを拾い上げてみれば、だれかの歯型が残った食べかけだったりする。それは、カウリスマキ映画の常連女優カティ・オウティネンの歯並びを思い起こさせる。
 平行に当てられたライトが作り出す濃い影は、今回もまた壁にしっかりと焼きついていて、ときとして勝手自由に動き出しそうなくらいだ。
 食べかけのジャーキーのふちをそっと喰んでみる。すると見てくれのゴツゴツさとは裏腹にじんわりとしたやさしい塩気がひろがる。ビールと、そして音楽が欲しくなる。
 カウリスマキが差し出すビールは気が抜けていてぬるい。でもキンキンに冷えた新鮮な樽生とはちがったビールの味がする。この苦さはジャーキーの塩気とまざって、複雑な、それでいてどこか懐かしい味になる。
 ステージとは呼べないような粗末な舞台で、老いたミュージシャンがダミ声でなにかを歌っている。音楽、酒、そしてレフュジーたち。

 ここには洗練された、高級なものなんかなにひとつない。オブラートにくるまれたウェルメイドとは無縁の世界だ。ちっとも素敵じゃないこの現実を、見ないふり触らぬふりで、身のまわり半径5メートルに築いた「希望」なんてなにもなりはしない。かといって、悲惨な現実を大袈裟に嘆き、これみよがしに吹聴してまわるのも、これまた欺瞞にまみれた振る舞いでしかないだろう。
 もはや手遅れになってしまった歴史の行方に、ちいさな石を投げ込むのは、奥底から、うたかたのようにわき出る善なる心でしかないのかもしれない。
 「希望」というものに、もうひとつのかたちがあるとしたら、それは鋭利なナイフで刺された傷口を左手で押さえながら、はたてに目をやることであり、そっとだれかを送り出すことなのだろう。
 年の瀬がせまった映画館で、口にいれたビーフジャーキーの塩気と、ぬるいビールが、あたらしい年をまたいでもなお、舌の裏側にはっきりと残っている。

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