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「ホース・マネー」

 ペドロ・コスタなんていうと、またでたと言われそうだが、もう好きなものは仕方がない。自分は映画ファンというわけではないと思っている。ほんとうに好きなものしか観ないと決めているせいで、大いに偏ってしまう。それを承知で聞いていただければと思うが、今回の「ホース・マネー」は、これまで以上に圧巻の名作だと言い切れる。とにかくワンカット、ワンカットが素晴らしいだけでなく、言葉をふくめ、その画面のなかで「起こること」に打ち震えるばかりであった。

 ペドロ・コスタを観る、観たいと思う気持ちは、ひとことで言えば、「痛みと悲しみと孤独」に触れようとする欲求にほかならない。これはキザでなく、この三つを日本語で書き記すのは、実はしっくりこない。
 「痛み」とか「悲しみ」と書くよりも、もっともっとずっと深いなにかといえばいいのだろうか。それを表すことばがみつからない。「孤独」なんかじゃない。絶望的に切り離された状態。たとえばこれをなんと言えばいいのだろうか。おそらくこれらは明治になって福沢諭吉あたりが外来語の翻訳として作ったことばであって、まだ熟成が足りないのかもしれない。
 肉体的、精神的な痛み、深い悲しみ、そしてなにものにも触れることのない自己。そんなふうに言い換えてみると、少しは輪郭が見えてきたようにも感じる。いずれ、そういったものに触れたいと思うなら、ぜひこの「ホース・マネー」を観に出かけてもらえればと思う。

 これはおそらく多くのひと、特に若いひとが、その深層において、身を持って感得していることだし、意識を通り越して響く映像言語であると信じている。
「人生はこれからますますひどくなるし、わたしたちは何度も三階から飛び降り、そして機械に切り刻まれる。」
老人の手の震えは止まらない。
「病気なんだ。」
 世界から切り離されたその手は、震えることでしか「手」であることを証明できないのだ。それはいまに生きるぼくたちの共通の病気にほかならない。ペドロ・コスタの同時代性は、たとえばチリのパトリシア・グスマンや台湾のツァイ・ミンリャンとゆるやかに呼応する。彼らが固執する、その「痛みと悲しみと孤独」に触れることは、そのまま「いま」を感じることになるだろう。

 たとえば「選挙に行こうよ」などと呼びかけたとしても、おそらく若いひとたちには届かない。なぜなら、それは「痛みと悲しみと孤独」を知らないひとのことばであるからだ。もっと深く彼らの奥底にありながら、いまだ覚醒していない領域に響くことばを見つけ出さないことには、彼らの心を揺さぶることは難しいだろう。
 そんなことばを吐き出すことができないなら、すでに敗北は濃厚だ。なぜなら政治であれ、文化であれ、それはひるがえってことばによってたつものであるからだ。
 ペドロ・コスタに匹敵する映画の言語、政治の言語を語らないことには、終焉はずっと足早にやってくる。少なくとも絞り出すように語らないかぎり、希望などというものはでてこない。

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