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「芝居道」

 京橋には「国立近代美術館フィルムセンター」という一風変わった映画館がある。一日三回、平日なら一時、四時、七時が上映時間である。それぞれ三十分前が開場時間で、それまで一階のロビーで待つことになる。
 広いロビーも人気の監督や演目ともなると人でいっぱいで、入口ドア付近からロビー奥まで埋め尽くされたお客さんの姿に圧倒されてしまうこともしばしばだ。 警備服を着た職員さんたちの慣れたてさばきで、ぐるり列をなし、これまた見事な隊列を作って三階の映画館に誘導される。
 その階段をのぼりながら、ポケットにあらかじめ用意していた五百円玉を無意識のうちに握っていたりする。この五百円(シニア、学生は三百円)という値段も、なんだか木戸銭みたいで好きだ。昔ながらの「活動写真を小銭をにぎりしめて見に行く」的な感覚を味わえる瞬間である。
 お客さんたちも慣れたもので、チケット売り場をかねた入場口でまごまごしている姿は見受けられない。皆あらかじめ五百円硬貨か、三百円と年齢をしめす証明書を用意していて、実に手際よく改札をすませ、つぎつぎとホールに入っていく。そのようすは、「映画」を観るぞという気概を感じることができて、これまた好きな瞬間である。

 なかに入って席にすわる。上映までだいたい二十分ほど時間がある。
BGMがかかっているわけでもなく、あちこちから話し声やコンビニの袋のガサゴソいう音、足音、衣擦れ、本のページをめくる音。いろんな音が丁度いい反響とともに聞こえてきて、いつもうとうと寝てしまう。別に寝不足でもなんでもない。なぜだかフィルムセンターの椅子は眠りを誘うのである。
 上映を知らせるチャイムとあらかじめ録音されたきれいな女性のアナウンスで目が覚める。うっかり寝込んでしまった時など、あれここはどこかなと一瞬あたりを見回すこともある。緞帳がひらいて、白いスクリーンが見えたかと思うと、天井の照明がゆっくり溶けていく。薄暗がりのスクリーンに向けて、映写がはじまる。

 まだぼんやりした視界に「撃ちてし止まん」の文字につづいて、タイトル「芝居道」。山田五十鈴と長谷川一夫の名コンビによる「芸道もの」だ。
 「芝居道」は昭和十九年の製作。「桃中軒雲右衛門」「鶴八鶴次郎」「歌行燈」と続いてきた「芸道もの」。成瀬巳喜男はこの作品以降、あれだけ得意としていた「芸」という題材で映画を撮ることはなくなってしまった。
 昭和二十年の八月までは、「道」をまっとうする「様式」や「型」が、そして「道」の彼方を照らす「美」が、かろうじて残っていたのだろう。戦前戦中の成瀬はその「様式」にある「美」を照射することにもっとも長けていたのではなかろうか。
 とするなら敗戦は、成瀬巳喜男からある大切なものを奪いとっていったことになる。その姿を「大岡政談」にでてくる片目片手の登場人物になぞらえるのは戯画化がすぎるだろうか。
 しかし成瀬巳喜男という「丹下左膳」は不自由な片手で、戦後ほつれてしまった「様式」の糸を、そして修復不可能なまでにちりぢりにされ、ぼろぼろに引きちぎられた「歴史」の糸を、それこそ一本一本丁寧に拾いあつめ、ひとつしかない眼で、その痛んだ糸の先っぽを注視することで、その才能を静かに「爆裂」させることとなる。

 太平洋戦争末期、大きな価値の転換を余儀なくされる予感をどこかに感じながら、しかしその予感はまぼろしであってほしい、「道」はこれからも果てしなく続いてほしいと願っている状況のなか、このうえなく豪華なセットで、最高のキャスト、スタッフで、やはりこのうえなく贅沢な映画「芝居道」が作られたという事実がここにある。
 六十年の時を経ても、そこに焼きつけられた「美しさ」は、すこしも色褪せることなくスクリーンからとめどもなくあふれでてくる。

 映画が終わる。落ちてくる涙を照れ隠すように上を見ると映写技師の姿が見えた。ああそうだ、ここは数少ない本物の映写技師がいる劇場なのだと思った。

追記:生誕百年という大きな成瀬巳喜男監督の回顧展の最中、九月十三日、成瀬映画に多大な彩りを与えてくれた名女優中北千枝子さんが亡くなった。感謝の念をもって手を合わせたいと思います。
ありがとうございました。

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