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7日間ブックカバーチャレンジ


(一日目)

 音楽仲間の秋山崇一さんからご指名をいただきました。メッセージで「どう?」と言われたときに、正直こまったなと思いました。というのもほんとうに本を読まないし、本棚にあったものはすべて神田の古本屋さんに売ってしまっていたからです。ということで我が家には本がないのです。
 聞くところによるとなにも言わずに本の表紙だけを撮って、誰かを指名するというルールがあるらしい。ともだちが少ない自分としては二重に高いハードルです。毎日外に働きにでていて、いそがしいのを口実にやんわりと断ろうと思っていたのですが、古本屋さんに売るのを惜しんだ本がいくつかあって、なんとか7冊いけそうなので、やっぱりやることにしました。そのかわりルールは守りませんので、あしからずです。

 ということで、その1は、永山則夫の「無知の涙」です。ぼくはほんとうに永山則夫という作家が好きなのです。
 「木橋」って本があるんですけど、そのなかに収録されている「土堤」っていう小説があって、これにはもう脳みそが爆発するくらいの衝撃を受けました。なんていうかな、志賀直哉という床屋の手刀みたいな作家がいるのですが、その真反対というか、泥でかためた、ものすごく固いかたまりのような「ことば」の群れなのです。
 で、「木橋」にしようと思って、あらためて探したら、これが見つからない。あんなに好きなのに、どうやら売っちゃったみたいです。永山則夫で残っていたのが、この「無知の涙」だけだったというわけです。
 でも、この「無知の涙」も壮絶です。ひとがなにかを、具体的にいうと「ことば」を獲得していくさまというのは、かくも身を引き裂く悶絶をもたらすものなのかという、神々しいまでの体験ができます。
 いろんな断片やノートによって「無知の涙」は構成されています。永山則夫はたくさんのノートを残しましたが、ただひとつ「新宿ノート」っていうのが、見つかっていないのです。ぼくはその「新宿ノート」にすごくそそられていて、勝手に想像をめぐらせたり、追いかけてみたりしていた時期がありました。
 そうしたらある会合で、永山則夫の最後の後見人だったかたとお話することができて、ぼくは思わず「新宿ノート」のことをたずねてみたのです。
 柔和な表情の素敵な女性は、初対面のぶしつけな問いに、とても丁寧にこたえてくれました。あたかも一緒に、幻といわれた「新宿ノート」を探してくれるように、きっとだれだれさんが持っているのかもしれないなどと、にこやかに。そして永山則夫との最後の面会のことなどを話してくれました。

 「ことば」とは、血を吐きながら、生涯をかけて獲得していくもの。永山則夫は、そんなあたりまえのことを教えてくれる希有な作家です。
 「ことば」がこれほど薄っぺらく、その向こう側がたやすく透けてみえるような社会にいて、決してとがらない、土塊のような永山の「ことば」がどれだけ救いになっているか。
 無差別に4人のひとを殺し、みずからも絞首刑に処せられたひとりの男の「人生とことば」は、ぼくの背中に筋彫りの刺青として残っています。ひさしぶりにひっぱりだした「無知の涙」のページすみには、たくさんの折り目がついていました。
 なにかひとつランダムにひっぱってみましょうか。ちょうど「新宿」について書いた一節を見つけたので引用してみます。

ネオンともる新宿
疲れた足と軽い足
片方は遊びで
片方は仕事
一語に泣いて一語に笑う
出会って別れる男と女
新宿は‥‥
新宿は廃退と超進主義者の街
口笛が流れて消えて
二度とは合わぬ
新宿は河
だが 海というところには着かない
堅い奴は暮らせない不思議な街
餓鬼が矛盾を見つける街
そこに俺という奴もいた


(二日目)

 まったくといっていいくらい本を読まない生活を送っているぼくのところに舞い込んだこのチャレンジ。まさにチャレンジの名にふさわしい試練に最初はたじろぎ、辞退しようとしました。
 でもまあそういうわけにもいかず、戸棚の奥、VHSテープの壁の向こうにある数少ない本をひっぱりだして、なんとか7冊見つかってよかったと、テーブルに並べ、ほっとしたその瞬間、なんとも言えない感情が溢れ出てきました。もうずいぶん前に置いてきてしまった愛情のかたち、すごく好きだったときの感情がそのままによみがえり、目眩のような、視界がゆらぐのをおぼえました。
 7冊それぞれが光と体温をもっているといいますか、そのとき、あるものは長い時間、影響を受け、全身をしびれさせた「本」というものに、いまさらながらに身悶えしたのです。

 いまは本を読まなくなったのですが、かつてはよく読みました。引っ越し荷物の大半が本だったころもあったのですが、10年くらいまえに全部売ってしまいました。惜しい気もしたのですが、そのときはなんかそんな気分だったのでしょう。残るものは身体のなかに残っているだろうし、本は読まれるものであって、並べておくものじゃないなどと、うそぶいていたかもしれません。
 そしてパタッと、読むことをやめました。そのかわり、書くことが増えました。いままでたくさんの本からもらった栄養が身体のなかでぐちゃぐちゃになって、自分なりのヴォイスになっているのではないか、いや、していかなければならないと思いました。
 そうして勝手に決別した本が、いまこうしてテーブルのまえに、そのままのかたちでそこにあるのです。これには心が動きました。機会をくださった秋山崇一さんには、あらためて感謝です。

で、その2は、内田百閒。
 
 もう好きすぎて、好きすぎてしかたがありません。おそらく日本の小説家で一番好きだと断言できます。内田百閒は随想家としてつとに有名です。著作も多いのですが、手練の随想家としてではなく、小説家としての内田百閒には、二冊の恐るべき創作集があります。
 「冥土」と「旅順入場式」です。大正期にでたこの二冊を旺文社文庫がひとつにして「冥土・旅順入城式」として出版したのが1981年です。
 このときの衝撃たるや、いまもきのうのことのようにはっきりと覚えています。こういうのを心酔というのでしょうか。元来惚れっぽい体質もあってか、かなり入れ込みました。すり切れるまで読みました。読むたびに、ことばがいろんな方向へ動きだし、イメージがぐるぐると、五感をつよく刺激します。本を読む楽しみは、どこか麻薬的な陶酔だと、これはずっと信じています。読書とは、脳が喜ぶ行為にほかならないと思うのです。

 百閒の「冥土・旅順入城式」は、まさに感情の歓喜であり、幻想的な陶酔でした。いや過去形ではなく、いまも、これからもそうです。
 ところがその大好きな、生涯で一番の宝物である「冥土・旅順入城式」がないのです。どこを探してもない。だれかに貸したのか、あげてしまったのか、はたまたあのとき売っちゃったのかはさだかではありません。はっきりしているのは、いま手元にはないということです。
 かわりに見つけた一冊は「サラサーテの盤」(福武文庫)でした。表題の短編「サラサーテの盤」は、これまた多大な影響を受けた鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」の主旋律になっています。あのとき「ツィゴイネルワイゼン」を観ていなければ、こうして録音ミキサーにはなっていなかったと言える衝撃的な映画で、これに関してはまた別の機会にしますが、80年代初頭は、内田百閒と鈴木清順にほんとうに翻弄されっぱなしでした。
 幻想の路地に迷いこんで、目を閉じたまま手探りで大通りにでようと必死で試みます。しかし心のどこかでは、いつまでもこのまま、迷路のようにはりめぐらされた幻想という名の路地をさまよい続けていたいと、この気持ちはいまもかわらないのです。


(三日目)

 暗い戸棚の奥を懐中電灯で照らしながら、ひっぱりだした本の表紙を撮るというこの試みですが、あるはずと思っていた本がことごとくないのには驚きました。
 あんなに影響を受けた寺山修司やミッシェル・フーコーの本が一冊も残っていないのです。大江健三郎も柄谷行人もなければ、根本敬も杉作J太郎もないという始末で、ほんとうに未練なく売ったのだなあとあらためて感慨深いです。
 同時期にレコードも処分しているのですが、べつに「死」とか「終末」とかを信じていたわけでもなく、ただ執着することをやめようとしていたと記憶しています。なくなるというのは、どこかすっきりとして気持ちがいいもので、やはり山のようにあるCDもブックオフ行きかなというところで、なんとか物欲が踏ん張ったらしく、CDはまだラックにおさまっています。

 ということで、その3は、大道寺将司。

 俳句にはとんと馴染みがありませんし、なにもわかっていません。にもかかわらず、大道寺将司の俳句集「棺一基」には、たいへんな衝撃を受けました。
 大道寺の波乱の人生にひっぱられたわけではなく、純粋に、ことばの強い力に全身を剥奪されるというこのうえもない体験をしたのです。俳句というよりは、むしろ一行詩といったほうが、自分には納得できました。
 ことばの向こう側からものすごいエネルギーがやってきます。そしてそのエネルギーはどこまでも静謐なのです。たぎるものと動かざるものが同居していて、こわいほどにやさしいのです。
 そんなことばの体験は記憶にありません。

二世契るをんな掻き込む洗ひ飯

 これはほんとうに大好きな句です。何年か前に地方にロケにいったとき、たまたま古い建物にはいりました。木の造りの暗い室内に、これまたくすんだ紙を見つけました。それはよくある指名手配者の写真です。白黒で、6人くらいがセットになっている、こどものころ、お風呂やさんの脱衣所に貼ってあったそれです。何十年もずっとそこにあったのでしょう。建物の歴史と一体となっていました。
 何気なく目をやると、そのなかの若い女性に目が止まりました。どこかあどけない美人の写真をながめながら、この句を二度三度と口ずさみました。

 このチャレンジの一回目に「無知の涙」を選びましたが、そのとき、パラパラとめくった、老眼には厳しい小さな文字の群れから「デズラ」ということばを見つけました。思わず浮かんだのが、やはりこの一句でした。

懐に出面ある夜のちんちろりん

 大道寺将司と永山則夫が、偶然ぼくのなかのちいさなところで出会ったようで、無性にうれしくなりました。生きている時間のなかで、なにかにつけ、ふとでてくることばの連なり。俳句には、そんな楽しみがあるのだと教えてくれました。
 
 「棺一基」は大切な本です。さてその表紙をと思うのですが、これがやはりないのです。ぜったいにあるはずなのですが、どこを彷徨っているのか、だれかに貸したか、あげてしまったか。家じゅう探しましたが、見つかりませんでした。

 「残の月」は、「棺一基」に続く大道寺将司の俳句集です。2012年から2015年までの句がおさめられています。「すべて病舎で詠んだ句です。」とあとがきにあります。「残の月」は進み行く病とつきあいながら、しぼりだすように吠えた消えゆくことばです。
 「棺一基」に見つけた、たぎるような生命の慟哭も飛び回る想像力もなりをひそめ、ひっそりと、しかししっかりと「俳句」になっていくように思いました。

深更の看守呼ぶこゑ梅雨寒し

今年もやってくる雨の季節、ぼくたちはそのころどうしてるでしょうか。


(四日目)

 やおら戸棚の奥をあさったり、「あれはないか、これはないか」とたずねるものだから、家人はたいそう怪訝な様子です。テーブルのうえに並べた本をながめていると、すぐうしろからこう声をかけてきました。
「かたよってるのよ。」
 ぼくはあわてて、振り返ります。家人は目玉をくるくるさせながら、
「ずっとよ。いろんなことがかたよっているんだよ。」
 そうとだけ言うと、自分の部屋にはいってしまいました。彼女は、本は図書館から借りるものであって買うなんてどうかしているとの立場です。ぼくは、好きなものは手元に置いておきたい性分なので、買って、好きなときに読んで、愛でたいと、ずっとそう思ってきました。
 我が家は極端に物が少ないです。そのせいか、以前、いくつもある本棚は、それなりの存在感でした。年末の大掃除のたびに、捨てろ捨てろと言われながらも、これだけはぼくの唯一の財産とばかりに、死守してきたものです。
 けれど、あるときふっと、そんなことが馬鹿らしくなりました。本の背表紙を眺めて悦に入っている自分がどうしようもなくくだらなく思えて、発作的に捨てることを決めました。同じ捨てるならいくらかにでもなればと、神田の古書店のかたに来ていただき、時間をかけて査定をしてもらいました。
そしていくばくかの金銭と広くなったスペースをもらって、寂しくも清々しい気持ちになりました。

その4は、そのとき売らなかった本「監督 小津安二郎」です。

 蓮實重彦の本はたくさん持っていました。蓮實さんたちが作った映画誌「リュミエール」も、ほぼすべて揃っていました。映画に関するさまざまなことで啓蒙され、教えられ、とても大きな影響を受けました。
 大学生だった80年代初頭は、「ニューアカデミズム」なんてことばが流行っていたころで、「新たなもの」の到来への予感と機運も手伝ってか、学問や文化、芸術にすごく勢いを感じることができた時代でした。
 それはひと世代まえの政治の時代とはまた異なった、ある種の「軽さ」みたいなものが付随していて、正面からぶつかるというよりも、反転させたり、笑いとばしてみたり、宙に吊ってみたりと、いろんな思考の手法や可能性を試していたように思います。さらにサブカルチャーの勃興もあって、従来のアカデミズムに、ポップな側面を付与することに成功した、いま思うと、とても楽しい時期でした。
 学生のころは、ひまだったこともあり、たくさんの映画を劇場で観ました。二本立て、オールナイト。名画座めぐりを繰り返していました。一日に七本も八本も浴びて、ひとつひとつの内容がわからなくなるという本末転倒もよくありました。
 小津安二郎の映画も例外ではなかったです。たしか小津は無声映画の時代から、生涯八十本以上の映画を撮っていますが、ぼくはそのうち、おそらく五十本くらいを観ていると思います。大好きな映画監督です。
 この本は、映画監督小津安二郎に関する考察です。考察というより、溺愛の書なのかもしれません。なので論文としての重要性は低いかもしれません。しかし、そこには紛れもない「映画愛」がとめどなく溢れていて、なんとも気持ちがいいのです。

 で、なぜこの本を売らなかったかというと、この本がサイン本だからです。だれのサインかというと、小津組のキャメラマン厚田雄春さんのサインです。いちどだけ厚田さんにお目にかかる機会があって、そのとき、この本を持ってサインをいただきました。なんといっても「監督 小津安二郎」は、厚田雄春さんに捧げられた本だったからです。
  表紙をめくると映画の題字があり、裏には小津安二郎と厚田雄春の写真があります。タイトルがでて、目次があり、めくると「監督 小津安二郎」の本編がはじまります。そしてその裏にこうあります。

厚田雄春氏に
讃嘆と感謝の念をこめて

 ぼくもこのうえない讃嘆と感謝を持ってサインをいただきました。書き直したり、「こういう雄もあるんだよ」と書いていただいた、ほんとうに思い出深い、大切な本です。できることならぼくの棺桶にいれてもらいたい、そんな一冊です。 


(五日目)

 なんだかどんよりした雰囲気が街を覆っていて、ひさしぶりの休みにもかかわらず、ちょっと身体が重いような気がしてなりません。「もしかしたら」なんて、無意識のうちに考えてしまうのが、よくないようで、少しの疲れをあらぬほうへと導いてしまう、いやな空気が流れているようです。そういったささいなことの堆積が、じつは日々の生活に大きな変化をもたらすのかもしれません。「ひょっとしたら」「もしかして」と思い続ける暮らしというものを、この先しばらくしていかなければならないというのは、気が重いです。
 困難が深まったら、慈愛や助け合いが強まっていくのか、はたまた分断や遮断が横行するのか。近未来の様相を呈した街並みをそぞろ歩きながら、すこし重いこの身体を励ましてみます。

 bSFというジャンルはあまり得意でははないのですが、SF的な風景にはたいへんそそられるものがあります。「こと」が起こる、その向こう側の景色はいったいどんなだろうかと、それを想像するのはたいそう好きです。
 辺見庸の小説に「青い花」というのがあります。男がただただ歩いていく話ですが、その風景がものすごくて、ぼくにとっては非常にSF的に映りました。

棺一基四顧茫々と霞みけり

と、大道寺将司は詠みましたが、これも非常にSF的な風景を感じてしまいます。
 SFというと近未来みたいな印象がありますが、時の流れが風景に溶けている、そんな時間のことを思ってしまいます。

その5は、アラン・ロブ=グリエです。

 大好きで、これまたたいへん影響を受けた作家です。大学にはいった時点で、すでにその著作のほとんどが絶版になっていて、その作品の入手は困難をきわめました。
 ロブ=グリエを求めて、どれだけ古本屋さんをめぐったことか。インターネットが普及していないころだったので、手当たり次第、一軒一軒探してまわったものです。ひまだったのでしょうね。でもこういう無駄に思える時間も、いまではなつかしく、かえっていいものです。
 深夜叢書の本は、ブックデザインがシンプルで、とてもかっこいいです。行ったことないからこそ感じる自分勝手な「フランスらしさ」を感じたりして。いまも色あせない素晴らしいデザインだと思います。

 「ジン」と題されたこの本は、ちょっとしたSFです。ものすごくおもしろいのです。いままで読んだ小説のなかでも、もっとも好きなもののひとつなのは間違いありません。
 そして「ジン」は、ロブ=グリエの作品のなかでも、彼が作る映画のテイストに一番近いように思います。どこか映画的なイメージにあふれていて、いつかだれかすごく優秀な映画監督が撮ってくれないかなと、密かに思ったりもしています。
 変わった出自としては、「ジン」は、アメリカの大学生向けに、フランス語の初級授業のテキストとして書かれたということです。だから各章が、時制によってわかれています。第一章は現在形で、第二章は過去形といった構成になっているのです。そうした語学テキストとしての文法のしばりがありながら、ワクワクするような、予想もつかないストーリーが展開されていきます。

 「ジン」を教えてくださったのは、平岡篤頼先生でした。この本は先生の授業で読みました。
 当時どうしても古本屋さんで見つけることができなかった「覗くひと」を借りに、先生の研究室までおしかけたことがありました。
「必ず返してくれよ。それっきりしかないんだから。」
と念を押されました。
 大興奮のうちに読み終わって、返しにうかがったとき、
「このあいだ翻訳した本で、こんなに売れ残っているのがあるんだけど、買ってくれないか。」
と、山積みになった本を指しました。
 「覗くひと」のお礼もあったので、高かったけど、その場で先生から買いました。クロード・シモンの「三枚つづきの絵」という小説でした。これがまたたいそうおもしろく、風景が強烈に印象に残る作品です。
 そのあとしばらくしてクロード・シモンはノーベル文学賞を受賞します。ノーベル賞作家として本屋さんで山積みになった「三枚つづきの絵」を見つけて、平岡先生の研究室を思い出しました。先生との時間とともに、「ジン」は大切な一冊です。


(六日目)

 本を読まなくなってずいぶんと経ちますが、そのとっかかりは社会にでたということがありました。ぼくは26歳くらいまで、ひとよりもながく学生をやっていました。いまでもそうですが、大学という場所が大好きなのです。
 どこか閉ざされた楽しみの場、自由であることが、なにとはなしに守られているような感じがするのです。文学部というどこか牧歌的ともいえる空間にあって、好きなだけ空想にふけたり、知的な刺激を受けたり、ことばをぶつけ合わせたりすることが許される。それはやはり人生のなかで、特別な時間だったのです。本に溺れ、ことばに耽ることができたからこそ、読書はこのうえない至福の行為だったのでしょう。
 いま思うと愚かなことですが、大学という場を離れて社会で働くようになったばかりのとき、ほとんどのひとにとってミッシェル・フーコーなんてどうでもいいということを知って、ショックというかダメージを受けたのを覚えています。
 自分の関心事の中心は、すこしも社会の関心事ではないという、あたりまえのことなのですが、そんなことに気づいたときから、少しずつ本から離れていったように思います。それだけでなく、ほんとうに仕事や生活でいそがしかったのです。そしてその現実がものすごくおもしろくもありました。物語のなかに飛び込まずとも、クリテークに脳を震わせずとも、ちがった刺激や高揚が、実社会のなかにありました。
 働きだし、それがどんどんと軌道に乗っていくのと平行して、本とのつきあいが離れていきました。同じように音楽からも、演劇からも、映画からも遠のいていきました。
 そうして長い時間が経ったときのことです。ぼくは録音ミキサーという、音を聴くことを仕事にしていますが、それがあるとき、いいようのない違和感が、からだのなかで起きました。ことばが耳に響いてこないといいますか、ぼくが知っていることばとはちがった内実をもったことばが、気がつくと自分のまわりに溢れていたのです。
 そのころはまったくといっていいくらい本を読んでいなかったのですが、それでももういちど本に帰ろうという気にはなりませんでした。
 そして3月11日がきました。

その6は、辺見庸「1937」です。

 大震災と津波と原発事故という、いま思ってもなんと言い表していいか、表現があたわないくらいの衝撃に襲われました。からだのなかからいろんなものがひっぺがされるような、それまでの価値観がひっくりかえって、ただただ自失する、そんな経験でした。
 そんな喪失感に心が吹きすさぶなか、信じがたいようなうすっぺらな、もはやことばとはいえない「音」が、いろんなところで叫ばれました。
 この非常事態にあたって、はからずも露呈したのは、ぼくたちがことばを失っているということだったのです。それは失語ではありませんでした。むしろ饒舌ともいえることばの渦でした。しかしそこで使われていることばが、じつにおぞましかった。発話することすら恥ずかしいことばのかたちでした。
 これにはかなり精神的にまいりました。混乱していろいろなかたにも迷惑をかけたように思います。そんなとき、ほんとうに偶然に、見るともなしにつけていたテレビからあるひとのことばが聞こえてきたのです。ぼくは咄嗟にテレビに駆け寄り、食い入るように見て、聞いたのです。そして、それが辺見庸との出会いでした。
 以来、ぼくは、ただひとり、自分が知っている「ことば」を話すひととして、辺見庸を読みあさりました。ジャーナリストとして、詩人として、小説家として、批評家として、語り手として、辺見庸は、ひとつのカテゴリーにおさまりきらない、どこまでも「ことば」のひととして、いまもぼくのなかにあります。そしてどのことばも突き刺さるように鋭く優しく甘くせつなく、スリリングなのです。
 その著作はどれもすべて素晴らしく、一冊を挙げるのが難しいのですが、「1937」を選びました。
 新型コロナウイルスで、これまでの基準を失ってしまったすべてのかたに、ひとつの試金石となる本だと思っています。


(七日目)

 こまかい雨が降っています。よく目をこらさないと、それが雨なのかどうかもわからないくらいかすかで、もう何年もずっと降り続けています。いっときたりともやまず、そしてこのさきもやむ様子がありません。しんしんと、あたりの音を消し、鬱屈とした景色にあたっては小さく跳ね、そして吸い込まれていきます。
 外では、ときどき大きな災害や戦争が起きていると、先日、年老いたおばが電話で話してくれました。あの原発事故が起きてから、雨は毎日降っています。いや、もうそれ以前から降っていたのかもしれません。ただ、わたしが気づかなかっただけなのでしょう。降り始めのころは、まだいくらか元気もあって、あれをやろう、これがしたいと、雨上がりの予定を立てていました。
 けれども一向に雨はやみません。耳をそばだてれば、サアサアと、一点を見つめなければ降っているのかわからないくらいのこまかさで、雨が降る。
ながいこと、こうしてひとり部屋に籠って、窓から灰色の景色を眺めています。テレビはうそばかり流すので、ずっとまえにやめました。インターネットもなにがほんとうなのかわからなくなるばかりで、一年前にやめました。ただ、なんとなくわかるのは、もう取り返しがつかないくらいに、外の世界が荒れ果てているということだけです。
 少しずつたまったこまかい雨が、側溝にちろちろと集まり、水位をあげ、そのうち家のなかにまで流れてくることでしょう。

 本を読もうと思います。この古ぼけた紙の、ざらっとした質感が、なにやらあたたかく、ことばがやさしく語りかけてくるようです。黒く印字された文字が、ゆっくりと起き上がり、わたしのまわりを取り囲みます。文字が、ことばが集まって傘となり、わたしのうえにひろがります。
本を読もうと思います。わたしの部屋に降る雨から、湿った身体を守るように、ことばが傘となり、もはや明けることのない朝に、わたしはちいさな森になりました。

最終回は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス「砂の本」です。

◎「7日間ブックカバーチャレンジ」とは
読書文化の普及に貢献するためのチャレンジで、好きな本を1日1冊選び、本についての説明はナシで表紙画像をFacebookへ7日間アップを続ける。その際毎日1人のFB友達を招待し、このチャレンジへの参加をお願いする。というもの。

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