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「オペレッタ狸御殿」

 大学にはいったばかりのある晴れた日、その日は教室を素通りして都電の駅にむかった。東京最後の路面電車、都電荒川線に乗るのが、そのころやってみたいと思っていたことの筆頭だった。
 はっぴいえんど「風街ろまん」のジャケット、寺山修二の映画「書を捨てよ町へ出よう」で、乗ったことのなかった荒川線への憧憬を深めていた。

 ぽかぽか陽気の春の日、狸囃子に誘われるように都電に乗り込み、あちこちの駅で乗り降りしてはあたりを散策したりしていた。どこをどういったのか覚えていないが、あげくの果てにぼくは飯田橋にある「ギンレイホール」という映画館の前にいた。かかっていたのは「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」の二本立てだった。

 しかし、しかしだ。ちょっと待てよ。たった今までそう確信していたその記憶が急に怪しげに思えてきた。
 荒川線は早稲田から浅草三ノ輪へむかう電車であり、飯田橋はまるで反対方向ではないか。まったく矛盾している。それと一本二時間半ある映画をふたつも観たのだから、相当時間がかかるはずで、それでも見終わって放心しながら見回した時、あたりがほんのり明るかったのを覚えているので、やはりこれは記憶の混同なのだと思う。でも本当にたった今まで、はじめての荒川線とギンレイホールは、これっぽちの疑いもなく、同じ日の出来事だと思い込んでいた。
 記憶は無意識のうちに、あるいは意識的に混同する。「記憶の作り変え」は寺山修二がよく口にしていたことだ。

 ギンレイホールはやはり狸囃子に誘われて、ふらっとはいった映画館だったのだろう。そこでさきの二本立てを観ていなければ、ぼくは今この仕事をしていないと思っている。
 「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」には、当時心酔していた作家内田百閒や泉鏡花、深沢七郎の作品が実に見事な配置で散りばめられ、原作をそのままに、いやそれ以上に美しく映像化されていたことに強い衝撃を受けた。
 映画より演劇に傾倒していたその時期に、映画のものすごさ、魅力に心底圧倒された。はじめて映画という表現形態がこれほどまでに力のあるものだと教えられた映画だった。

「監督 鈴木清順」。おそるべき知性をもった人の名が頭に焼きついた。このときの衝撃がなければ、年間百数十本も映画を観る習慣をもたなかったろうし、そののちに映画関係の仕事を志そうとはしなかったろう。

 鈴木清順の映画には「死」が充満している。おそらく映画という形態が「死」を内包してしまっているのであろう。すぐれた作品には、常に「死」が満ち溢れている。それはいうまでもなく映画の登場人物が死ぬということではない。映画鑑賞とは「死」を追体験することなのだと想い起こさせてくれるある種の経験なのである。
 映画監督伊丹十三は「たんぽぽ」の冒頭、映画を死の直前にみる走馬灯ととらえ、それこそが自分がもっとも観たい映画だといっていた。しかし彼は飛び降り自殺という「瞬時の破壊」、すなわち走馬灯=映画を拒否する行為にでた。おのれの人生=映画からの忌避こそは映画監督にもっともふさわしくない態度ではなかろうか。

映画監督鈴木清順はゆっくり死んでいく。その作品の初期から小さく芽生えていた「死」は年月と作品とともに、順調に大きく育っている。さきのふたつの作品で行きつ戻りつしていた此岸と彼岸は、「カポネおおいに泣く」「夢二」を経て、前作「ピストルオペラ」で完全にその境界線を失った。
もはや境界線を失った世界の、霞がかかった視界に映るのは、はるか遠くの「狸御殿」である。

 この映画は人と狸、すなわち生ける者とと死者との恋物語にほかならない。デビット・リンチの「マルホランド・ドライブ」を心から美しいと思った人は、やはり同じ美しさを「オペレッタ狸御殿」から受け取ることと思う。


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