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西大寺駅

おりにふれ繰り返し読む百鬼園先生の著作に「續百鬼園随想」という名調子がある。珠玉の小品のなかでも「西大寺駅」という、あたかも「阿房列車」のひとつにも数えられるような旅の一幕におおいに心ひかれた。

夕暮れ時の長岡。
岡山までの二里の道行きに列車をつかうことに決めた作者は、西大寺の駅舎へとはいっていく。待合いにしばらくいて、切符を買い、ホームにでてあたりを見回す。列車は定刻を過ぎてもやってこない。そしてとうとうきた列車に乗り込むという、ただそれだけの、文庫本にして八頁ほどの話である。
しかしそこにちりばめられた色と音と光のイメージは、実に、すさまじいばかりに錯綜していて、読む者をどこまでも幻惑する。

誰もいない待合いに、 手持ち無沙汰にまかせて作者が目をこらすのはおのが瞼の後ろ側である。

『目を閉じたまま、瞼の裏面を見る様な気になって見る。花形の様なものが、幾個となく出来て、それが次へ次へと、向うの方へ消えて行く。』

その静寂を破るのは田舎男のけたたましい下駄の音である。
出札口からもれてくる弱いランプの光がさしこみ「毒滅」の看板の大きな顔が半分だけ照らされている。 買い求めた切符をさしだす駅員の手が赤黒い。前に並ぶ田舎男の首には傷口から赤い肉が盛りあがっている。

『軈て、瘰癧が赤切符と、沢山の釣銭とを貰って退いたから、其後へ行って、出札口の前に起つ。中から、大きな赤黒い手が覗いて、とんと軽く板を打ったと思うと、壁を隔てて、上の方で、「何処まで」と云った。「岡山」と答えると、壁の向うで「九銭」と云う。十銭銅貨を出して、板の上に、ぱちっと音をさせて置く。赤黒い手が引込んで、出札口に細長い赭顔が覗く。』

そういえばさきに煮売屋から飛び出してきた讃岐女のひきずった帯の色は、ひょっとすると黒ずんで汚れた赤色ではなかったかと思いかえす。そして赤黒い手の奥には、さきほどその讃岐女をひやかした駅員が、鼻の穴に筆の軸を差し込んで、目をパチパチさせているのが見える。

聞こえる音に耳をそばだて、ほのかな光に目をこらし、映る色に引き込まれたなら、「西大寺駅」は、もはや素朴な田舎の小さな駅などではなくなる。
遅れてきた列車に、うっかり乗り込もうものなら、どこか二度とはもどってこれない「隙間」にはいりこんでしまうのではないかという思いが頭をよぎる。
気をつけなければ。でも一体何に。

あの世とはこの世というかさぶたの裏側なのだろうかと、百鬼園を読むたびに、そんなことを考える。

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