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死ぬ前までに食べたい100の美菓 番太郎菓子とさつまいもスイーツ


街頭紙芝居の生業の始めは、飴を売ることだった。飴や駄菓子のことを、江戸では番太郎菓子と呼んでいた。
その番太郎菓子の始まりは、江戸市中にあった番屋の本業で、駄菓子屋とか荒物屋は番屋を兼ねた、現代のコンビニみたいなものだった。

番屋は正しくは木戸番のことで、江戸のはじめ、多くの城下町には防犯のため木戸が設けられていた。夜は木戸を閉じるために、「番太郎」または「番太」と呼ばれる木戸番がいた。

大抵が町内の老人で、番小屋に居住し、給金はそれぞれの町内から支払われていた。晦日ごとに1軒につき20文から100文の銭を長屋の家主が集め、これをその月の月行事が集計してその中から木戸番への給金を出していた。

しかし、その賃金は少なかったことから、駄菓子・蝋燭・糊・箒・鼻紙・瓦火鉢・草履・草鞋などの荒物(生活雑貨)を商ったり、夏には金魚、冬には焼き芋などを売ったりして副収入としていた。

昨今はさつまいもバブルということで、さつまいもの生産量も、焼き芋などのさつまいもスイーツの量も爆増しているというが、焼き芋屋は番太郎の専売のようになっていた。


前に、番屋と長屋に住む芸人たちをモデルにした小説を構想していたことがある。

舞台は深川仲町、正しくは深川永代寺門前仲町と言うが、富岡八幡宮別当の永代寺の門前に作られた町屋で、横丁の入り口に木戸が設けられていた。木戸口には番小屋があり、與平と言う爺さんが女房のお円と二人で暮していた、という設定だ。

木戸は夜の四ツ時に閉められ、盗賊や夜逃げ、逃亡者などの見張りを務めるが、夜四ツ時以降、仲町に用事のある者は木戸番に身形を改められ、木戸脇にある潜り戸から通る決まりとなっていた。

その時、與平は必ず送り拍子木を打った。
通行する人数が一人の時は一発、二人だと、コンコンと二発打たれる。通行人が無くても、與平は、決まった時刻に、「火の用心」と拍子木を打つ。

昔は、所帯を持たない独身の男が木戸番を務める決まりだったが、與平が引き受ける頃は、町の事情に詳しい年寄りが選ばれるようになり、長屋暮しでは一番長い、元大工の與平とお円の夫婦が選ばれた。二人の間に子は無くて、ずっと二人暮しを続けていた。

お円が手づくりの麁菓子(駄菓子)や蝋燭、糊などを売ったり、與平も鋸の目立てや包丁や刀の研ぎなどの仕事を兼ねていた。時には、横丁の清掃を請け負い、街から出てきた古紙を浅草橋の紙漉き屋に売り払ったり、長屋の公衆便所の肥えを千葉の野田や埼玉の川越の農家に売っていた。

お円が営む店には、横丁の子どもたちが集まり、夏には金魚やほおづき、朝顔の鉢植え、麁菓子を売ったり、冬には、與平が集めてきた木切れを炊いた火で焼きいもなどを売っていた。お円が作る麁菓子や焼き芋は評判になり、江戸の町中で、麁菓子のことを番太郎菓子とか、番太郎が専売のように売り始めた焼きいもも番太郎と呼ぶところも出てきた。

現代でも焼き芋屋のことを番太郎と呼ぶ土地がある。

江戸駄菓子と焼き芋の発祥は番太郎からだった。

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