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死ぬ前に食べたい100の美菓  冬の水ようかん


水ようかんが美味しい季節になりました。
鶴岡市民は 年の瀬が近づくと、無性に水ようかんが食べたくなる。鶴岡市内のお菓子屋さんの店頭にも、冬の水ようかんのPOPが貼られる。

福井にも冬の風物詩に水ようかんがある。福井の場合には、京都のお菓子屋に丁稚奉公に出た若者が、正月休みで故郷に帰る時、京都で覚えた水ようかんをお土産にしようと作ったものだと言われている。

和紙の歴史を調べていた時、福井県の越前大野で冬の水ようかんを見かけたが、近江、越前敦賀、酒田は、日本海水運の北前船の航路で結ばれている。つまり、丁稚ようかんつながりがあるのだ。越前大野では2月に水ようかん祭りをやっているが、北前船では、雛菓子などの京の上菓子も鶴岡に伝わってきている。


鶴岡の場合、私は近江の名物の丁稚ようかんではないかと推理している。酒井家が庄内に入部の際、一緒に伊勢や近江、越後などから商人たちも同行し、鶴岡に店を出し、城下町を形成していったが、その中に近江屋という御菓子屋五日町(現在の銀座通り)に店を開いている。

その近江の名物に、丁稚ようかんがあり、それが鶴岡でも作られるようになって、冬に売られるようになったのだと

正月に里帰りする丁稚が、お土産に買えるほど安価で、また丁稚でも作れるほど簡単に出来るという由来がある。もともと、お菓子屋の奉公は無給だから、里に帰る時にお土産が買えるほどの金を持っているわけがないので、ようかんの原料も駄菓子と同じく黒砂糖など安い材料を使わなければならない。

丁稚ようかんの原料は、駄菓子と同じく黒砂糖など安い材料を使っている。現代は高品質の材料を使い、上品な味になっている。

福井県の越前大野では2月の上旬に、丁稚ようかん祭りというイベントが開かれているのだが、近江、越前敦賀、酒田は、日本海水運の定期航路で結ばれて鶴岡の水ようかんの由来も、最初福井と同じではないかと推理してみたことがある。

酒井家が庄内に入部の際、一緒に、伊勢や近江、越後などから商人も庄内に入り、店を出していった。その中に、近江屋という御菓子屋も、五日町(現在の銀座通り)に店を開いているが、近江の名物に丁稚ようかんがあり、それは鶴岡でも作られ、売られたのだろうという説を立てた。福井は酒井家とも何かと縁がある土地なこともある。鶴岡の冬の水ようかんの由来で、もう一つ気になることは、昭和の戦争が激しかった時代、物不足で満足に正月が越せないからと、当時の鶴岡町が、寒天棒を一世帯三本配給することにした。その頃は鶴岡の漁村でも寒天棒を作っていたから、今でいう経済対策でもあった。

鶴岡町民はその寒天棒で、卵寒天を作り、おせち料理としたり、値段の安い黒砂糖を使い、水ようかんを重箱に詰めている記録があるのだ。

おそらくは、町からの配給で冬に水ようかんを食べるようになったのだろうが、福井での由来と同じく、そんなの関係なく、鶴岡の人間は冬、こたつに入り、「足を炙り」ながら、水ようかんを楽しんでいる。

それにしても、経済対策に寒天棒なんて、当時の鶴岡町はウィットに富んでいた。

特に外が地吹雪で舞う時にはたまらないおやつだ。毎日、除雪で疲れた身体を甘いものが癒やしてくれる。

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