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死ぬ前までに食べたい100の美菓 みつまめ、あんみつ


「ひゃっこい〜、ひゃっこい〜」
「白玉、心太、みつ豆はいかが」
「ひゃっこい〜、ひゃっこい〜」

夏になると江戸の街に白玉、心太、みつ豆売りの声が鳴り響く。

天秤棒の木桶に入っている冷たい水には、ゆらゆらと白玉や心太、みつまめが浮かび、1椀4文で売られていた。

大人は心太に醤油や酢をかけ、子どもは白玉やみつまめに砂糖やきな粉をかけて食べる。

昭和の流行語「ミーハー」の語源は、昭和のはじめ、みつ豆が好き女の子をみーちゃんと呼んでいたから。みつ豆は江戸時代から人気のスイーツだった。

明治時代に入り、みつまめは一文菓子屋、駄菓子屋で心太と同じように売られていたという。夏場、売り上げが落ちる駄菓子屋にとって、みつ豆は人気商品で、通常5厘だったが、1銭払えば脚付きコップに入れて、氷と干しあんずと、ついでに白玉も一緒に盛られて売られていた。寒天抜きで、えんどう豆に蜜をかけるのが通好みの食べ方だった。

芋ようかんで有名な浅草「舟和」の主人・小林和助氏が角寒天、求肥、赤えんどう豆に、色鮮やかなフルーツを添えて蜜をかけ、「みつ豆」としてデビューさせ、みつ豆専門の喫茶室「みつ豆ホール」を開店している。そんなことから、舟和がみつ豆の元祖といわれている。写真は現代の舟和のあんみつ。

そのみつ豆が、あんみつへと発展するのは、さらに27年後の昭和の銀座でのことだった。
東京銀座のカフェで、みつ豆の中にあんこを入れた、あんみつが誕生し、これまた大ヒット。そして、みつまめ、あんみつは瞬く間に全国に広がっていった。

筆者の地元、山形の庄内で銀座のカフェを真似て、あんみつを出したのが美人餅屋という店で、その後、鶴岡は佐金デパート、酒田は清水屋デパートの食堂で売り出している。そのほか、鶴岡銀座のスーパーマーケットのヤマリンの大食堂でも売り出されている。さらには、鶴岡ふくひろのあんみつは、女子高生の人気スイーツだった。

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