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反出生主義⑥妊娠中絶


現状では中絶をする場合、何らかの理由が必要だと考える人は多い。しかし存在は常に害悪で、普通の人生でも大きな害悪を被っているとするならば、むしろ中絶をしないことに理由が必要なのではないか。
中絶をする場合、子供はいつ存在するようになると言えるようになるのかは重要な問題である。

①存在の意味
「存在するようになる」という言葉には、生物学的な意味と道徳的な意味が混ざっている。ここでは受胎した瞬間に存在する、というのが生物学的な見方だと理解して貰えれば充分だ。では、今回問題となる道徳的な見方ではいつ存在すると言えるのだろうか。

②4種の利害
道徳的な利害をいつ獲得するのかが問われることになるだろう。まず、利害には4種類の段階があるとされている。

1.機能的利害
車や椅子などの人工物がもつとされる利害
2.生物学的利害
植物がもつとされる利害
3.意識的利害
ライオンなどの動物がもつとされる利害
4.反省的利害
人間がもつとされる利害

さて、この4つにおいてどれが道徳的に関係する利害と言えるだろうか。様々な哲学者の議論をまとめると、意識をもった存在者のみが道徳的に関係する利害を持ちうる、というのがもっともらしい。よって、三以降の利害が道徳に関係する利害と言えそうだ。中絶反対派の中には生物学的に人が存在した段階で中絶に反対する派閥もあるが、それは意識のない存在にも道徳的利害があると言っているのと同値のため、植物の伐採にも反対するべきである。

③いつから意識が生じ始めるのか
色々な実験が行われているが、とりあえず28~30週目あたりで最低限の意味で意識があるとされている。しかしそれは大人のような意識なはずがない。意識はその後、徐々に発達していくものである。

④存在し続けることへの利害
妊娠28~30週目あたりで最低限の意識が生じるのであれば、それ以降の中絶は容認されないと考えられそうである。しかしそれでもなお議論の余地はある。最低限の意識は快・不快を感じる程度のもののため、痛みを与えない形での中絶ならば容認されうると主張できるからだ。ここでは存在に関する利害と存在し続けることに関する利害を区別して考えている。
ベネターは道徳的利害にも強度があることを指摘している。道徳上の身分は存在の瞬間に与えられる類のものでは無い。道徳上の身分も成長に伴って徐々に発達していくのである。もし道徳上の身分が全く同じ強度(つまり、胎児と大人が同じ道徳的身分というようなこと)ならば、ある段階までなら人間を殺すことが間違っていないのに、ある段階を超えた瞬間に殺すことが間違っているというのはおかしなことになるからだ。
胎児の段階の利害は、生まれた後の人生が悪いものだという見通しから、退けられるだろう。従って、不快な人生が続くのならば、妊娠後期の中絶であっても道徳的に望ましいとされるケースはあるということが示される。

人生は想像以上に悪い。出産という行為は子供を地獄へ送り出しているようなものだ。妊娠してしまったのであれば妊娠初期で中絶をする方が良いし、後期であってもその後の悪い人生を歩ませることよりはまだ、中絶した方が良いと言えるかもしれない。
それでもなお子供を産むのであれば、産む理由についてよく考えるべきだろう。

そんな理由なんてないのだろうけれど。