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反出生主義⑤ 障碍とロングフルライフ

子供を持つことの法的制限に気乗りしない人は多い一方で、障碍者はなるべく存在させない方がいいと思っている人は多い。障碍をもって生まれてしまった、あるいは障碍を持つ子を産んでしまった、ということで訴えを起こす場合すらある。このような訴えをロングフルライフ(望まずに生まれた命)訴訟と言う。

①障碍は社会に作られたもの
障碍者の権利を守ろうとする主張の中には『障碍は社会に作られたものだ』というものがある。
目や足の不自由は社会とは関係のないひとつの事実である。と考えている人はこの主張に反対するだろう。しかしこれは議論を誤解している。この議論は「不能」と「障碍」を区別するべきだと言っているのである。
車椅子の人がスロープがなく2階に上がれない場合はその建物において歩けないことは障碍である。しかしエレベーター等があり2階に上がれる場合は歩けないことは障碍ではない。
どんな人にも不能はある。例えば我々は自力で飛ぶ事は出来ない。しかし飛べないからといって翼がないことは障碍とは呼ばない。なぜなら1階に入口があり、2階に上がる時は階段が用意されているように、翼がない人を想定して建物が作られているからだ。
もし翼が生えている人がほとんどの社会であったら、2階に入口があったり、階段は用意されてなかったりするかもしれない。その場合我々は障碍を持っていることになるだろう。
よって、障碍があるとされるのは、体に不自由がある(不能な事がある)からではなく、社会がそういう人を排除するように出来ているから、と言えるのである。
この議論は堕胎を反対する主張を擁護する。
障碍のある子供を産まないようにして障害者を減らすのではなく、社会における障碍となるものを減らして障害者を減らすことを目指すべきだからだ。

②反出生主義の立場から答える
障碍は社会に作られたものである。という意見が目指すところは、今現在障害者と呼ばれる人の人生も続ける価値がある人生だと認めさせることであり、それは「障害のない人生が始める価値のある人生だ」という前提を持っている。
反出生主義は①の議論を擁護するが結論は違うところに行き着く。
重要なのは「普通の人にも出来ないことがある」と見落としてしまいがちな所を強調しているところだ。
私たちが瞬間移動ができるなら、高速道路や車は必要ではないし、瞬間移動できた方がいいだろう。更に、私たちはお腹が空くし、暑さ寒さに敏感だ。だからこそ食べる為に働くし、エアコンや扇風機を使う。このように、私たちの人生は何かに頼って生きるしかないという点であまり上手くいっていない。
また障害がある人とない人でQOLの評価が異なっていることも重要である。障碍がある人は障碍があっても始める価値のある人生だと思う一方、障害のない人は障害のある人生は始める価値がないと思っている。ではここで、あらゆる苦痛から解放されている地球外生命体がいると仮定して、その生命体は、暑さ寒さに敏感で、遠くに行くには車を使わなければいけない我々の人生を始める価値のある人生と言うだろうか。、答えはNoだろう。
従って3章の議論も加味して思うに、障碍があろうとなかろうと始める価値のある人生はないのだ。

③ロングフルライフ
子供を作る法的権利が認められている限り、自分を産んだのは不当だと訴えることは難しい。
障碍を持って生まれたことはそもそも健常者と比べてそこまで悪くないかもしれない。
しかし、そもそも健常者のQOLの判断もまた誤っている。存在は常に害悪なのであれば、親に対して、あるいは医者に対して、訴えを起こすのは全体的に適切と言えるのではないだろうか。