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反出生主義③ 子作りの義務

これまでに存在は常に害悪であり、人生は思っているよりも悪いということが分かった。この結論は子供の誕生に関わってくる問題だろう。今回は子づくりについて考えていく。

①子作りをする義務
子作りをする義務があると主張する人もいる。(a)産まれてくる子供の為(b)親や国などの産まれてくる子供以外の利害や功利心や宗教的な要求というのがこの義務を正当化させている。
ベネターの意見は(a)の理由に強く反対する。というのも存在は常に害悪であり、始めるに値する人生は無いというのがベネターの主張だからだ。(b)に関しては反論の余地がある。存在の害悪は認めても、子供の誕生には存在の害悪を上回る価値が親や国にはあると言われる可能性があるからだ。しかし前回考えたように想像以上に人生が悪いものだと認めるならば、この反論は疑わしいと言えるだろう。

②子供を作ってはいけない義務
では逆に、子供を作ってはいけない義務はあるのだろうか。産まれてくる子供が甚大な障害を持っていることが分かっていたり、宗教的な要請など、場合によっては有り得るという人は多いだろう。ではこの義務は全人類に適応できるのだろうか。この疑問に答えるには我々の子作りへの関心について考える必要がある。我々は子孫を残そうとする強烈な本能があり、子作りを辞める場合、これに真っ向から反抗することになるからだ。子作りへの関心は
(a)性交への関心
(b)子育てへの関心
に分けられる。
大抵の場合、(a)を満たすために子作りは行われる。言い換えれば、子どもを作ろうとして子作りをしている訳ではなく単にセックスの結果として子供は生まれている。しかし避妊具などがあり、子供を作る事なしにセックスは出来るのであるから、子供を作ってはいけない義務があるとして、(a)を捨て去る必要はない。セックスの際にその当事者が少し配慮をすればいいだけなのだ。その少しの配慮が存在することの害悪を上回ることは無いだろう。(b)を満たすためには自分の子供である必要はない。実際に養子をとって育てる人もいるのだから。しかしこれは現状望まれない子供がいるために可能なだけであり、子供を産まない義務が全人類に適応された場合、この関心は捨て去る必要が出てくるだろう。
この他にも子供をもつ理由はある。出産の当事者以外の人の関心を満たすためというのがあるだろう。孫を見たい祖父母や、国や地域の維持の為等だ。これは両親の利益と表裏一体だ。祖父母に孫を見せれば不平不満は黙らせられるし、子供を持つことは社会的なステータスになる。とはいえ、前述の子作りへの関心が子供を持つ主な理由だろう。両親は生物学的な欲求が満たせて満足だし、子育てによって日々に充実感が生まれる。子供が育てば老後の備えとなるし、孫を見せてくれるかもしれない。しかしこれらは子供を持ちたいと思う正当な理由になるだろうが、子供を持つことは悪くないという理由にはならない。存在は常に害悪ということを認める場合、子作りというのは他者に多大な害悪を与えることになるからだ。

③子作りと自己欺瞞
「自分の人生が幸せだったから産まれてくる子供も幸せになるだろう」と思うために人は無意識に子作りが許されると思っている。もし大多数の人が生まれてきたことを後悔しているのであればこの推測は間違いだと糾弾されることになるだろう。しかし現実ではほとんどの人が自分の人生に満足しているため糾弾されない。だからといって子作りは許されるものだろうか。答えは否だ。人は選好的適応をしてしまう生き物である。人は欲しいものが手に入らないと分かると欲しがるのを大抵辞める、また不幸な状況にいると認識して、選好をその苦境に合わせるようになる。私たちの存在が害悪であり過ぎるが故に、自分の人生は素晴らしいと自己欺瞞に陥っている可能性は大いにある。過酷な環境の奴隷が自ら進んで奴隷で在りたい、奴隷でいることが1番安らぐ、と言う場合、理性的に考えればそんなことは無いと思うことだろう。そうだとすれば、人生に満足感があったとしても、それを子作りの正当化の理由としてはいけないのである。

④無茶な要求
子作りをしてはならないというのは大変な要求だということは否定できない。
子供を作ってはいけない義務が「場合」によってはあると認める人は多い。その「場合」というのは子供が深刻な害悪に見舞われる場合、ということもその通りだ。では、存在は常に害悪で、それは想像以上に害悪なのだと認めるならば、全人類はこの「場合」に含まれるのではないだろうか。そうすると、子作りをしてはならないというのは無茶な要求(我慢できないほどの要求)とは言えないのではないだろうか。

自分の子供を地獄の釜に突き落とすことと子作りの関心を諦めること、どちらを選択するのが良いだろうか。

おわり。