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反出生主義④ 子作りの権利

前回は子作りの義務について考え、反出生主義の立場から子作りを作らない道徳的義務があることを主張した。子作りを禁止するとなると、本来もっている子作りをする権利を脅かすことになるが、それは本当だろうか。

①子作りの権利を理解する
子供を作る自由があるという権利が道徳的権利の側面だけなのであれば、問題はすんなり解決する。これまでの議論から子供を作るという行為は道徳的では無いと認められるため、子供を作ってはいけないという道徳的義務が優先されることはあきらかだからだ。しかし子作りの自由の法的権利は残る。子作りをすることは間違いであるが、法的権利はたとえ間違っている行為でもそれをしてもよいと認めることが出来るからだ。例えば言論の自由の法的権利は優れた言説を守るためではなく、むしろ悪く愚かだと思われるような言説を守るために存在している。しかし、殺人や窃盗を許す法的権利は有り得ないように、それをしてはいけないような過ちも多く存在する。そこで問題になるのは、人を存在させることは、法律で守られるべき類の過ちなのかどうかだ。
子作りをしていい権利はどのようにして根拠づけられるのかをみていこう。

②自律性に根拠づける
職業選択の自由など、私達はなにかに束縛されない自由をもっている。ここから、産む産まないの選択も束縛されないため法的権利を持ちうると主張できる。しかし子供を産んでよい法的権利は無条件にうけとれるものではなく子供を持った方が良いという仮説に過ぎないのだ。子供を産むことが深刻な害悪を引き起こす場合この仮説は退けられる。そしてそれは常に引き起こされるため、常にこの仮説は退けられる。

③無益さに根拠づける
では実際に政府が子作りを禁止する法律をだしたとしよう。しかし政府が禁止したとしても、人々はその法律の抜け道を見つけるだろう。しかしその抜け道は整備されてる訳もなくハイリスクな出産になる。また政府は抜け道を無くすために市民の監視を始めるかもしれない、これらの害悪は子作りの禁止による利益を上回るため法的権利を認めた方が良い、とするのは説得力のある主張となる。

④意見の相違に根拠づける
政府が行為を禁止できるのは、相手の同意なく危害を与える場合である。これを危害原理という。そしてその行為が危害かどうかの意見が市民の間で別れる場合には危害原理の射程から抜け落ちる。よって「存在は常に害悪」ということを受け入れられない人が多いため、(出産が害悪を及ぼすというのは議論の余地があるため)出産の法的権利は守られうる、と、出産の権利擁護派は言うだろう。
「奴隷が奴隷であるのは本性的に適しているからだ。」として奴隷制を擁護している社会を考えてみよう。その社会の人々は奴隷制は奴隷に害悪を及ぼしているとは思っていないだろう。ではその社会に入っていき、奴隷制は非人道的的だと反対の声をあげたとしよう。その社会の奴隷制擁護者は言うだろう。「その主張は議論の余地がある。よって危害原理の射程外だ。」と。
以上の想定は一般化できる類の比喩だろう。議論の余地があるだけでは行為の法的権利があるべきだとは言えないのである。


⑤子作りの権利をめぐって
②~④で見てきたように、私たちの世界では子作りの法的権利は充分に正当化されており、そうでない世界ではプライバシーの侵害や物理的介入が起こり得てしまう。よってリベラルな政府である限りは子作りの法的権利は擁護され続けるだろう。「存在は常に害悪」を認めていても、新しい子供を作るべきでは無いという道徳的義務を考えながら、子供を作る法的権利を擁護することができるのだ。
しかしながら擁護されるからといってその権利の重要度を維持し続ける必要はない。子作りという範囲においては害悪の許容度が高いことが多々ある。例えばエイズのような感染症の病気を持った人が病気を他人に伝染すような振る舞いは許されないが、遺伝する確率が高くとも子供を産むことは許容されていたりする。
このようなことを考えると、子供を作る自由の制限を新たに考えることも妥当ではないだろうか。

今生きている相手に出来ないことを、どうして未来の子供に対しては振る舞えるのだろうか。