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反出生主義② 正しい絶望の仕方

存在は常に害悪という事は前回で示された。誰かを存在させることは道徳的な行いでは無いことも理解出来たと思う。今回は私の、そして貴方の人生は自分が思ってるほど良いものでは無いということを示そう。

①人生の質
人生が良いものなのか悪いものなのかを判断する時、良さの量から悪さの量を引くことで勘定しようとする人は多い。しかし、薄々勘づいているかもしれないが、そんな簡単には人生の質は決まらない。まず順番の問題がある。人生の前半で良い事が沢山起こり、後半で悪いことがたくさん起こるような人生は良いものとは言えない。次に強度の問題だ。強い快楽が散りばめられているがその快楽が刹那的なもので持続しないような人生は良いものとは言えないだろう。とはいえ薄い幸福だけが続く人生も味気のない人生と言え、それほど良いものとは思えない。他にも人生の長さの問題がある。少ししかいい事のない長い人生は多くの悪いことで特徴付けられる。快楽と害悪が同じ量の人生の場合、個人個人の信念によって長い方がいい、短い方がいいと人は判断する。最後に閾値の問題だ。人生のどこかのタイミングで凄まじい害悪を被った場合、その後の快楽の量がどれほどでもその悪さを打ち消せない。例えば戦争で捕虜になり、筆舌しがたい拷問を受けたとする。その後助かり、幸福な人生を歩んだとしても、その一回の害悪でその人生を悪いものと判断するのはおかしな事では無い。以上のように単に快楽と害悪の差し引きで人生の質は決まるようなものでは無いのだ。

②人生の質の自己判断は信頼出来ない
人生は重く苦しい、それほど良いものでは無い、といった悲観主義はだいたい否定される。なぜか。多くの人が自分の人生を良いものだと感じているからだ。しかしこの自己評価は当てにならない。人は自分の人生に好意的な価値判断をする心理作用があるからだ。よく知られているものとして、ポリアンナ原理がある。この原理は様々な形で現れる。例えば被験者に思い出を語らせるとき、多くの人が良い思い出を語るという実験結果がある。また将来おきる良い事を語らせれば大袈裟な良いことを語る。このように人は無意識のうちに記憶の選り好みをしており、人生が上手くいっていると誤認し、また将来も良くなると考えるようになっている。また、自分が幸福かについて、多くの人が平均よりも幸せだと答えるのもこの効果故である。また自己判断においては人を取り巻く環境はあまり影響しない。ある国では貧しい人と裕福な人の幸福度が変わらない。また教育や職業でも幸福度にそれほどの違いが出ない。貧困や十分でない教育は幸福度を下げると思われがちだが、このような出来事はあまり関係が無いのだ。ポリアンナ効果の他にも人生を良いものと感じるような心理的現象はある。それは慣れとか順応と呼ばれるものだ。例えば引っ越した先の家がボロボロだとする。それはもちろん不満に繋がるが、住んでるうちにその環境に適応してしまう。すると不満は当初よりは少なくなり、幸福の主観的感覚は元引っ越す前のレベルに近づく。このように幸福の主観的感覚は実際の幸福のレベルよりも、最近の変化に依拠するため実際の幸福レベルの指標としては使えない。3つ目の心理的作用は自分が幸福かどうかを他人と比べてしまう事だ。そうすると自己判断は実際の人生の質というより相対的な人生の質の指標にしかならない。以上の心理的作用のうちプラス方向に幸福かどうかを判断させるのはポリアンナ効果だけである。しかしポリアンナ効果の威力は絶大だ。順応であれ比較であれ、この影響下にあると言ってもいい。例えば人生の質を他人と比べる時自分より悪いだろう人と比べがちだったりする。しかしこれは進化論的には納得である。この効果がなければ人はもっと自殺しているだろうし、子作りももっと行われなかっただろう。

③人生の質に関する3つの説
上記のように、自己判断が当てにならないことはわかった。そこで人生の質を決定するのに影響力のある3つの説を紹介し、吟味しよう。
a 快楽説
この説によるとプラスの精神状態とマイナスの精神状態がどれほどあるかによって人生の質は決定される。しかし、マイナスの精神状態がどれほど私たちの人生を彩っているかは無視されがちである。暑い寒い、空腹、疲れ、ストレス、これらは日常的に感じているはずである。けれどもこれらを私たちは普段考えていない。それはあまりにも当たり前にあるために慣れてしまっていたり、ポリアンナ効果によって悪いことが見落とされてしまっているからだ。これらは日常的にある苦痛である。しかし苦痛というのはこのようなものだけではない。病気や怪我、親しい人との別れ等、イベント的な害悪もまた多くある。とはいえもちろん、快楽が存在してないという訳では無い。また、こうした苦痛があるからこそ人間は成長し、快楽へと転ずるというのも認める。しかしそのような快楽のために害悪を進んで被るというのはバカげてはいないか?仮に人生に内在的な良さがあるとしても、決して存在しないことに勝るような純粋な利益を構成はしない。1度生まれてしまったならば、存在に含まれる内在的な快楽を味わうのはいい事だ。しかし、その快楽は存在という不運の代償としての産物であり、その代償は計り知れないのだ。
b 欲求充足説
この説は人生の質は欲求がどれほど満たされたかによって決まるというものである。
どれほど不満を解消することが出来たか、と言い換えてもいいかもしれないが、これは快楽説でも言った事だが、私たちは意識をしていないだけで多くの不満を抱えて生きている。それが分かればこれを全て解消するのは不可能だと気づくだろう。また私たちは快楽を欲求し、その一部は満たされる。しかし満たされてもなお不満足だったりする場合が多い。欲求はそもそも即座に満たされることの方が少ない。眠りたいのに眠れない。お腹が空いてもすぐには食べられない。また満たされてもその満足は一時的なものだ。休みの日はすぐに終わるし、欲しいものを買ってもすぐに次のものが欲しくなる。叶わない欲求も多い。整形をしても北川景子にはなり得ない。巨万の富を求めても、惨めに貧乏なまま。欲求を満たすための努力に価値があるという見方もある。甲子園に行く過程に価値があるという見方だ。もちろんそういう場合もある。しかしそういう場合もある程度の事だ。働かずに3億貰えるならそれに越したことはないし、最初からミケランジェロのような作品を作れるならそれがいいだろう。あるいは癌治療はどうだろう。癌は普通治したいが、誰が癌治療を進んでしたいと思うだろうか。もし何かを追い求め努力をする必要がないのだったら全体からみてそっちの方が良かったりする。幸福のために努力が必要なんだ、という考え方は奴隷根性が染みついているだけなのだ。
C客観リスト説
この説では客観的に良いとか悪いとか言われることをどれくらい行う、あるいは行わないか、によって人生の質は決定される。
このリストはその社会における良い悪いが適応されるため、人間の相の元に作られており、永遠の相の元には作られていない。イギリスでは良い事が中国では悪いことということは多々ある。このように客観リストとは言え、それは(ある社会においては)客観的とされているだけであって(真に)客観的という訳では無いのである。このリストを用いると個々人の幸福度は測れるかもしれないが、人生という事象そのものがどれほど良いものかは測れない。ここで語るべきは誰かの人生の質ではなく、人生一般の質である。人間の視点で客観リストを作るとしたらそれは先の心理的作用によって信頼に足るものではなくなる。私たちはそれが期待できるかどうかで物事の価値を判断しがちである。例えば普通私たちは200歳まで生きられなかったことを嘆くことはしないが、20歳で死ぬことは嘆くことだと考えている。では90歳で死んだ場合はどうだろうか。大往生とか言われるのではないか。このように私たちの判断は環境によって制約されている。しかしなぜ私たちは良い人生を手の届くところにあるとしなければならないのか?90歳を過ぎてもそれまでなんの苦痛もなく幸福に満ちた人生ならそれが良いとされるに決まっている。ならばなぜ、こうした(良い人生は不可能だという)基準で人生を判断しないのか?あるいは人生の意味について考えてもいい。人生を良い事悪い事で価値づけるのではなく、意味があるから価値があるとするのだ。しかしそれでも問題は生じる。人類のために活動しているような人生は人間の相のもとには意味がある。しかし宇宙的な視点では、永遠の相のもとには意味が無い。そんなことは論じてもしょうがないとおもわれるかもしれない。しかし人生が誰から見ても良いとされるに越したことはない。つまり宇宙的な視点で見ても意味がある方が良い。さらにポリアンナ効果なども加味すると、人生の意味を過大評価しやすいように人間の視点からみて人生が価値あるものとと考えてしまっているということになる。

以上3つの説がどれも上手くいかないことは示せた。人生は思った以上に悪い。しかしここで述べているのは人生に続ける価値がないという事では無い。どんな人生であれ悪いとされる事が相当数含まれているということを示したのだ。悪いことの量が少ないとしても良いことの量がそれを上回ることは有り得ないのだ。

④ 苦痛の世界
前回言った通り、反出生主義は悲観主義の側面がある。故に楽観主義者からは泣き言を言って自分を哀れんでいるだけだと退けられがちだがそれほどポリアンナ効果は強い。しかし実際に世界に含まれている害悪の量を考えると楽観主義者はあまりにも根拠が薄い。自然災害、飢え、病気、事故、どれだけの人間が今、苦しみ、死んでいるだろうか。これまでも戦争や虐殺で何億人と死んできている。強姦、暴行、虐待…様々な悪意が至る所で起きている。毎年何十万人と苦痛に耐えきれず自殺している。しかし私達は自分の子供はそんなこととは無関係だと、根拠なく思い込んでいる。害悪が少なく幸福に満ちた人生なんてほとんど存在しない。あったとしてもそこには何百万という悲惨な人生が横たわっている。子供を産むという行為はこの極めて確率の低いロシアンルーレットに参加するということだ。楽観主義者はこの子作りロシアンルーレットを正当化する責任を負わなければならない。もちろん正当化は不可能だろう。楽観主義者は不当なロシアンルーレットをし続けている。

銃口を自分の子供に突きつけて。

終わり。