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反出生主義① 誕生否定と存在否定

反出生主義ってなに?なんか人生暗く考えてるしょーもないやつでしょ。子供の発想じゃん。大人になれって。勝手に死んでくれ。子供を産む産まないは個人の勝手だろう。反出生主義にたいして散見する意見だ。今回は少し丁寧に反出生主義を見ていきたい。

①反出生主義の出処
反出生主義の出処を探すと恐らく最初に示される文献は古代ギリシアの詩人テオグニスになるだろう。「地上の人の世に生まれず、きらめく日の光を見ず、それこそすべてに勝りてよきことなり。されど、生まれしからにはいち早く死の神の門に至るが次善なり……」と歌っている、古代ギリシアのソフォクレスのオイディプス王にも「決して生まれてこないことが最善なのだ。だがもし私たちが日の目を見なければならないのならば、次に最善なのは私たちがきたところにすぐ戻ることだ。」という箇所がある。このような反出生の思想と読み取れるものは古代ギリシアには多数ある。古代ギリシアの時代精神の1つでだったと読み取れる。
他に反出生をテーマとして取り扱った代表的なものにはゲーテのファウストがあるがそれはまた別の機会に言うとして、ここまでの反出生主義は自分の経験からして人生に良さを見いだせず絶望する者の思想である。そしてこの意味合いで反出生主義を捉えてる人が多い。

②悲観主義、虚無主義
悲観主義とは「この世は辛く苦しいものである」とする立場だ。哲学者としてはショーペンハウアーが有名である。
虚無主義とは「この世に一切の価値は無い」とする立場だ。哲学者としてはシオランが有名だ。反出生主義はこの2つの主義に属するものと理解されがちだ。そしてそれは合っている。「この世は辛いものだからそんな世界に子供を放り込むのは間違っている」「この世に価値は無く当然私のいのちにも価値は無い、自殺しよう」というのは確かに反出生主義のひとつの側面だ。しかし、悲観主義者でも虚無主義者でもなくとも、場合によっては楽観主義者だとしてもベネターの主張する反出生主義は成立する。そういった強烈な理論武装をした新しい側面を持ったものが現在扱われる反出生主義なのである。

③ベネターの反出生主義
ベネター式の反出生主義の核となるのは「存在は常に害悪」というテーゼである。これの正しさを示すことが新たに子供を作ることへの強い反発の理由となる。
まず、生きるに値しない人生は有り得るのかについて問題がある。これが示せなければ、出産はどんな場合であれ肯定されることになるからだ。まず想定してほしいのが、妊娠初期の段階でその子が重大な障害をもっていることが分かった場合、堕ろすことは認められうるだろう。とはいえ、妊娠初期の段階で右足がない子供とわかったからといって、その子の人生が生きるに値しないとまでは言えないかもしれない。そう考える人は「生きるに値しない」という言葉の曖昧さに騙されている場合がある。「生きるに値しない」という言葉には「始めるに値しない」と「続けるに値しない」という2つの意味が混ざっているのだ。例えば、人生の途中で右足を失ったからといって「続けるに値しない」と考え即座に死ぬ人はそう居ないだろう。しかし産まれる前の子供に右足がない場合「始めるに値しない」から堕ろそうと考える人はいる。このように「生きるに値しない」という言葉の中には異なった基準に当てはめられるような曖昧なものが含まれているのだ。つまり「生きるに値する人生」の中には閾値が異なった基準があり、「生きるに値する人生」の中にも「始めるに値しない人生」の存在を認めることができる。では、「始めるに値しない人生」とはどのようなものだろうか。言い換えれば「存在してしまうことが害悪」となるのはどういう場合だろうか?ベネターによる答えはこうだ。「常にだ」。

④快楽と苦痛の非対称性
ベネターは一切の苦痛のない人生がもしあれば、それは肯定できるとしている。しかし、針を指に指す程度の苦痛が人生にあれば、その人生は生まれてこなかった人生より場合より悪いのだ。そして実際もっとたくさんの害悪を人生において被る。苦痛や失望、不安、悲嘆、そして、死。これらは常に我々の人生を取り巻いている。しかし存在していない人には生じない。害悪を被るのは存在している人だけなのだ。
こういうとすぐさま反論が飛んでくる。害悪だけでなく快楽も存在していることによって生じるのだ。よって実際ある人生において害悪よりも快楽のほうが多ければ、その人生は生きるに値する。と。しかしこの結論にはならない。その理由として快楽と害悪の違い(非対称性)について説明する。以下に異論はないだろう。
(1)苦痛が存在しているのは悪い
(2)快楽が存在しているのは良い
しかし快・不快が存在していない場合は以下のようになる。
(3)苦痛が存在していないのは良い
(4)快楽が存在していない事は悪くない
これを受け入れるためにいくつかの見解を提示する。
①単純な義務
苦痛を与えることを避ける義務はあるが、快楽を与える義務はない。人を殴らない義務はあるが、人に飴を与える義務はないということだ。
②子作りの義務
産まれてくる子供の利益のためにその子供を産むというのはおかしいが、産まれてくる子供の害悪を取り除くために子供を産まないというのはおかしくない。子供をうむ選択をする人を考えてみよう。産む理由に道徳的なものはあるだろうか?子供は誰のために産まれているのか?
③後悔の対象
子供を産んだ場合も産まなかった場合も後悔しうる。しかし、子供のための後悔は産んだ場合にしか起こりえない。子供が怪我をした、障害が残った、等でその子のために後悔をする。しかし産まなかった場合の後悔は自分が出産育児の経験をしそこなった自分への後悔である。
④遠い世界の快・苦
火星に火星人が居らず、喜びが存在してないことを嘆く人はいない。しかし仮に火星人がいて、苦痛が存在していることは残念に思う。では火星人がいて苦痛が存在していないことを喜ぶのかというとそういう訳でもない。喜ぶことと嘆くことは対照的な出来事と考えるべきではない。嘆きの反対は喜びでは無く、端的に良いと呼ばれるものだ。

これらの擁護によって非対称性に納得できたならば、次の2つのシナリオの比較によって存在してしまうことが常に害悪であることの説明ができる。


シナリオAとシナリオBを比較したとき、(1)と(3)を比べて(3)の方が良いの方が良いのはわかる。では(2)と(4)はどうだろうか。結論は(2)は(4)に比べてメリットがあるとは言えないということだ。この結論はおかしいのか?悪くはないというのは感覚の中立に位置し、良いというのは中立の状態より良い状態である。よって(2)のほうがメリットがあるように見える。しかしそれは誤謬だ。シナリオBの快楽の不在がシナリオAの快楽の不在と同じように扱われてしまっている。Xがいる場合Xにとって快楽があることは快楽がないことよりも良いのは当然だ。相対的に良いのである。しかしシナリオBにおいての快楽の不在は誰かしらの心の中立の状態ではない。誰かしらの心の状態ではどうしたってない。よって(2)は(4)よりメリットがあるとは言えないのだ。ここはとても分かりづらい。よって次の比喩を考えてみよう。(存在者と非存在者を比べる比喩は出来ようもないので喩えられないが、それでも感覚を理解してもらうのには有用だと考える。)病弱さんと無敵くんの2人がいる。病弱さんは病気になりやすいがすぐに回復する能力がある。無敵くんは全く病気にならないが、回復する能力はない。2人のうちどちらが良いだろうか?すくなくとも病弱さんの方が無敵くんより良いということはないだろう。
よって、大富豪の家に産まれて何不自由なく生活が出来ていたとしてもその快楽の大きさに関わらず、存在は非存在より悪いのだ。ここに「存在は常に(非存在に比べて)害悪」というテーゼが生まれる。功利主義者の、幸と不幸の量を比較して幸の方が大きければその人生は生きるに値する、というめでたい主張の間違いは分かるだろう。1つの理由として、シナリオAだけで比べても意味が無いということが上げられる。シナリオAとシナリオBを比較することで存在しない方が良いと言える訳だ。

⑥ベネターの反出生主義から
ここまでベネターの反出生主義を見てきた。これは著書『生まれてこない方が良かった 存在してしまうことの害悪』の第2章までを掻い摘んで説明したに過ぎない。ベネターが言っている反出生主義は、生まれてきてしまった事への嘆きでも、この世に価値がないと言っている訳でもない。ただ、存在は常に害悪となることを示し、出産の道徳性を問うてるだけなのだ。
産むという行為は正しくない。けれども子供が欲しいと考える時、私たちは産むことにどんな理由を用意できるのか?漠然と出産は喜ばしい事だと、肯定される事だと考えているが、それは誰にとって喜ばしいのか?
反出生主義は、アラサーになり結婚出産が現実味を帯びてきた私たちに考える機会を与えてくれる。反直感的だからといって単に突っぱねるだけでは勿体ない。皆さんはどんな結論を出すだろうか。