北條不可思 ブログ Ⅰ♦Rev.Fukashi Hojo 2021★April :04/10★唯信◇2021(令和3)年4月号 ❖ 煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり(高僧和讃:源信讃 親鸞聖人御作)❖
唯信◇2021(令和3)年4月号
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謹みて 有縁の皆さまには慈光照護のもとお念仏ご相続の事と拝察申し上げます。
急遽春彼岸法要の休座を決めてから1年が経ちました。これまでの『当たり前』をあきらめて新しい日常を模索する1年でありました。それでも、世の中と新型コロナ・ウィルス感染症の折り合いがつくには、もう少し時間が必要なように感じております。
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煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光(こう)明(みょう)みざれども
大悲(だいひ)ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
【意訳】煩悩に眼(まなこ)をさえぎられて、あらゆるものを摂(おさ)め取るという阿弥陀仏の光明を見ることはできないが、その大いなる慈悲は見捨てることなく、常にわたしを照らしてくださっている。
(出典『三帖和讃』浄土真宗本願寺派編)
この御和讃は、高僧和讃のなかでも源信(げんしん)和尚(かしょう)の御功徳を讃じられた一編です。私たちは、文章を通して遠い時代の人の知見に触れることができますが、親鸞聖人さまも源信和尚の著書『往生要集』を深く洞察なさいました。
源信和尚は、『仏説感無量寿経』にある、「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」とのお言葉に続けて、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障(さ)へて見たてまつることあたはずといえども、大悲倦(う)むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と『往生要集』に著述されました。
親鸞さまはこの一文が伝えている意味を尊く大切に受け止められて、ご自身の著書『教行信証』『尊号真像銘文』『一念多念文意』に記載されています。しかし、とりわけ私たちになじみ深いのは、『正信偈』の一節「煩悩鄣眼雖不見 大悲無倦常照我」(赤本p.32/旧赤本p.30)ではないでしょうか。
お手元の赤本(お経本)で、その前の二行「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中」とあわせてあじあわさせて頂くと、親鸞さまが阿弥陀仏を仰がれているお心が不思議と伝わって来るようです。
「地獄にしか落ちようのない極重の悪人である私がただただ阿弥陀仏の大慈悲心を疑いなく信じお頼りすれば、すでに、私もまた、み仏の光に収め取られていたと知らされます。決して断ち切れない煩悩にさえぎられて私にはその光明を見ることがかなわないけれど、阿弥陀仏の大慈悲心は一瞬たりとも休むことなく常に私を照らして下さっています」と、御本願の御信心を賜った喜びを時空を超えて教え示して、御恩報謝のお念仏を勧めて下さいます。
ところで、仏教において煩悩は、人間の根源的な迷いです。親鸞さまは、本願他力のご仏縁を賜り、我が身は煩悩具足の凡夫と深く信知して、我が力で完全に煩悩を滅することは決して出来ないと明確にされました。だからこそ、阿弥陀仏の光明は見えないけれど、その光に照らされている真実を慶ばれました。阿弥陀仏の光明とは、私たちが日常生活で認識している光(太陽、月、ろうそく、電球、水面に反射する光…etc)を超えた御本願のお徳(おはたらき)そのものです。
見ることはかなわず、気づくことさえ出来ない泥凡夫の身でも、すでに阿弥陀仏の光明(不可思議光)につつまれているのだから、この上は、いよいよ御本願に聞き、お念仏申させて頂いて、お浄土参りの人生を歩かせて頂くばかりです。誠に尊く、有り難い限りです。
合掌称佛
住職 北條不可思
♦唯信:九坊院より言の葉だより♦
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